「作州忍者鶴山隊」第10回学習会
2021年4月21日「作州忍者鶴山隊」第10回学習会は、津山市観光協会前会長 竹内佑宜さんによる『幕末津山の密偵』と題した講演でした。竹内さんは郷土史家で鞍懸寅二郎研究会長も務めておられます。学習会では、津山の歴史文化について幅広く話され、会員参加者は熱心に耳を傾けておられました。津山の隠れた歴史文化を知る事もでき、時間が経つのを忘れるくらいでした。最後に忍者検定があり辛うじて通過してきました。(集合写真提供:克丸隊長)
2021年4月21日「作州忍者鶴山隊」第10回学習会は、津山市観光協会前会長 竹内佑宜さんによる『幕末津山の密偵』と題した講演でした。竹内さんは郷土史家で鞍懸寅二郎研究会長も務めておられます。学習会では、津山の歴史文化について幅広く話され、会員参加者は熱心に耳を傾けておられました。津山の隠れた歴史文化を知る事もでき、時間が経つのを忘れるくらいでした。最後に忍者検定があり辛うじて通過してきました。(集合写真提供:克丸隊長)
津山藩江戸藩邸
江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、江戸と領国の二重生活を送ることになっていました。そのため、大名は江戸に屋敷を拝領し、多数の藩士が単身赴任の苦しさと、大消費都市江戸の享楽の同居する生活をしていました。
津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄十一年(1698)九月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側に七千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用しました。この鍛冶橋藩邸は後に敷地が加えられ、最終的には一万二千坪ほどになっています。
江戸の津山藩邸は鍛冶橋藩邸だけではなく、浜町の中屋敷、高田・深川の下屋敷などがあり、それぞれかなりの敷地を有していました。
2016年7月2日(土)~9月25日(日)「言の葉の海へ-オランダ語翻訳に挑む-」が津山洋学資料館で開催されています。
江戸時代の日本は厳しく海外との交流を制限しており、ヨーロッパ諸国の中では唯一オランダとだけ交易を行っていました。そのため西洋の学術や文化はオランダ船によって長崎の出島にもたらされました。蘭学者たちは、西洋の学問を学ぶため、オランダ語の翻訳に挑みました。そして新しい知識を得て、まだ日本にないモノや概念には、新しい言葉を作りだしました。(2016年7月17日撮影)
文政8年(1825)、呰部教論所の学監 菊池文理の二男として阿賀郡下呰部村(現真庭市下呰部)に生まれる。江戸に出て箕作阮甫に蘭学を学び、後にその養子となった。
文 久元年(1861)、幕命により通商条約実施延期交渉のため、欧州六か国を訪問。また慶応2年(1866)には、北方領土境界交渉のためロシアを訪問する など、幕末の外交交渉に活躍した。維新後、英学塾「三叉学舎」を開設、原敬・東郷平八郎・平沼淑郎ら多くの門人を育成するとともに、森有礼・津田真道・福 沢諭吉らと明六社を興し、明治初期の代表的知識人として知られた。19年(1886)東京で没す。(資料提供:洋学資料館)
2014年6月1日(作州維新文庫についてはこちらからどうぞ)
創業以来、80年を越える旅館「お多福」には、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されています。今回、「郷土の志士展」(作州維新文庫主催)が2014年6月1日・2日にあり行って来ました。岸田吟香の絵画や書・津田真道の和歌などがありましたよ。
幕末の洋学者で、明治の啓蒙思想家として知られる津田真道が生まれたのは上之町で18歳まで過ごした生家跡がある。生家跡の取材はこちら
真道は文政12年(1829)津山藩士津田文行の長男として、ここ津山字林田上(現津山市上之町)に生まれた。幼名を貴久、次いで鶴太郎、また亀太郎と言い、長じて真一郎・行彦と称し、明治維新のころ真道と改めた。
生活は決して恵まれたものとは言えなかったが、真道は幼い頃から読書が好きで「座臥常に巻を釈てず」「津田真道」と伝えられている。
津山洋学資料館は平成22年3月に新館がオープンし、その前庭に宇田川玄随・宇田川玄真・宇田川 榕菴・箕作阮甫・箕作秋平・津田真道の5人の胸像が置かれています。いつも拝見するのですが、はて?この方たちの年代と何時、何処で、何をしたかがごちゃまぜとなってしまっているので、各人のプレートから少しまとめてみました。
津山洋学資料館(つやまようがくしりょうかん)は、岡山県津山市の城東町並み保存地区にある博物館です。建物は「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫・津田真道・宇田川玄随・宇田川榕菴)」をモチーフに五角形を基本として設計されたとされています。