旅館「お多福」のお宝(作州維新文庫)紹介

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 創業以来、80年を越えるお多福は、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されている。一例をあげれば、津山藩主松平康哉が描いた山水画。歴代藩主の中でも、特に名君として誉れ高い松平康哉は、宝暦12年藩主となり、学校を起こし藩士の教育を奨励、また武道の振興を講じた。そして能力のある人物の起用を広く進め、若き優秀な人材を発掘、登用することを常に心がけ、藩政改革に挑んでいった。しかし、その理想が結実することは容易ではなく、幾度もの紆余曲折があった。とくに天明年間は全国的に天災が多く、大凶作が続く困難な状況のもと、藩内外に倹約令を出して乗り切った。また江戸にあって康哉は熊本藩主細川重賢に私淑したほか、米沢の上杉鷹山・白河の松平定信らの諸侯と親交を深くし、幕政にも大きく寄与するところがあった。資料提供:旅館「お多福」(2010.5.10)
※作州維新文庫には、広瀬臺山遺墨、飯塚竹斎遺墨、津山藩御用絵師遺墨、作州文人遺墨、津山藩維新志士遺墨、平賀元義及び門人遺墨、江戸期岡山歌人遺墨などが収蔵されている。

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▲写真左:松平康哉筆 山水図   写真右:館主の著書(平賀元義を歩く・作州画人伝・作州津山 維新事情)


その康哉と身分を越えた交友を持ち、江戸で活躍した文人画家広瀬臺山。その広瀬臺山は津山藩士で江戸時代中期の画人。名は清風、字は穆甫、通称は雲大夫といった。江戸の文人達との交友は広く、松平定信、上杉鷹山、そして伊勢長島藩主増山雪斎ら諸大名から、雲室、片桐蘭石、松崎慊堂・谷文晁・木村蒹葭堂など、当時一流の人物との交わりが深く当時の臺山はまさしく作州津山の顔でもあった。その臺山は日常の生活の中に「詩・書・画」三絶にその情熱を注ぎ、特に「詩は志をいうもの」との立場に徹して、文武兼備のサムライとしての本分の啓蒙に勤めた。臺山の画は秀麗にして重厚、観る者をして心の底より感動をせしむる、とまでいわれている。ここに載せた『甲斐国猿橋図』と『日光裏見滝図』は代表作といえる。その人生のほとんどを江戸勤めで過ごした臺山だが、晩年の文化8年に津山に帰国して隠棲した。この時代に為した作品の多くが今も残されているが、わずか二年後の文化10年に没した。飯塚竹斎ら幾人かの津山藩士が画の指導を受けたと思われる。

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▲写真左:広瀬臺山筆 日光裏見滝図  写真中:広瀬臺山筆 甲斐猿橋図  写真右:広瀬臺山筆 金彩青緑山水図

その飯塚竹斎は寛政8年津山藩士広瀬氏の生まれ、のちに飯塚家(津山藩士・百石)に 入り、与作を名乗った。名は翥、字は君鳳、号は竹斎のほか筆飛将軍、少陽、季秋など。津山藩士小島石梁の推薦で臺山に入門したが師事できたのは短期間。江戸に出てからは谷文晁に師事したとも。現在、郷土において確認される竹斎作品は百点以上。生涯においては千点以上の作品を描いたであろう。人物画や花鳥画にも深い関心を寄せ、長崎派や西洋派の影響が感じられる濃密な作品もものしている。天保から弘化時代、すなわち竹斎四十歳代から五十歳代にかけて優品が多く、師広瀬臺山に次いで、美作国津山を代表する画人として位置づけられていた。御用絵師さながらに度々藩から画業を仰せつかっているのも特筆すべきこと。
竹斎作品の特長は、師臺山の筆法に最も似て、山水画においてそれは顕著であるが、加えて天性の才能から文人画の域に留まらず、より濃密細緻な作品をも多く残しその卓越した技巧と、筆致の冴えをもって独自の世界を確立させている。文久元年(1861)に没し、墓は西寺町妙法寺にあり、時に六十六歳であった。

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▲写真左:飯塚竹斎筆 群鶴図   写真中:飯塚竹斎筆 武将図   写真右:飯塚竹斎筆着色蓬山水図

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▲写真左:飯塚竹斎筆 富岳図   写真右:飯塚竹斎筆 山水屏風


平賀元義は岡山藩士の子として生まれ、天保3年(1832)に脱藩。以来備前・備中・美作と放浪、多くの門人の家を訪ね歩き、歴史・地理・神事など古学を究め、多くの万葉調の和歌を詠み残した。その人生は奔放で奇行に満ち、終始貧困不遇であった。明治になって正岡子規に称賛されたことにより、大歌人としての地位を得た。その書も個性的で独特の書風がいまもなお多くの愛好者を持っている。

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▲この『作州維新文庫』の中心となっているのは、幕末の万葉歌人平賀元義関係の遺墨類。研究書も豊富だ。

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▲写真:平賀元義の遺墨


津山藩の御用絵師の狩野家には、狩野洞学幸信やその後継者狩野如林乗信。また、その直系ではないが狩野如水由信や如真完信がいた。いずれも多くの作品が津山に伝わっており「作州維新文庫」にも如水由信の大作「六曲一双屏風」が収蔵されている。また、如林乗信の後継者は如泉成信であり、そのあとを継いだ狩野如林宗信は、実力、人気とも随一であった。常時、館内に於いてこれらの作品を観ることが出来る。

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▲写真左:津山藩御用絵師 狩野如真筆   写真右:狩野如林筆

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▲写真左:狩野如水筆 山水図屏風   写真右:狩野如水筆 山水図屏風


近年、「玉子かけごはん」で有名になった偉人岸田吟香の書や書簡なども展示されている。
特に吟香が志士として活躍した青年時代をテーマとしての研究なども「作州維新文庫」に収蔵されている。

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▲写真左:岸田吟香筆蹟   写真中:岸田吟香筆蹟   写真右:岸田吟香筆 山水図


植原六郎左衛門
幕末の兵法家、水練家。諱は正方、静淵または翼龍と号した。兵学、剣、砲術に通じ、特に藩から水練修業を命じられ、伊予松山藩にて神伝流を学ぶ。嘉永元年(1848年)印可皆伝、10世宗師となる。津山、江戸築地鉄砲洲に水練場を設け、藩内外の武士多数に水練を教授した。藤田東湖、藤森弘庵らと交友を深める。藩の文武の制度を改革整備し、一方では梅田雲浜、頼三樹三郎ら尊皇攘夷の士と交わるが、自らは尊王佐幕の立場をとった。阿部正弘の信任を得、「深夜雷」を著し、外国船との水戦を論じ声望を高めた。幕命を受けて津山で大砲を製造し、海防に奔走。幕府滅亡に際し幽閉されていたが明治元年に自刃した。

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▲写真左:植原六郎左衛門墓   写真中:植原六郎左衛門筆書   写真右:竹内佑宜著・植原六郎左衛門伝、美作の墨蹟


津山市観光協会長でもある竹内さんの所蔵の「美作一国之絵図」は「作州維新文庫」に収蔵されていて、縦2.72m、横3.18mもの大きさ。大きな傷も無く、ほぼ完全な状態で保存されている。この絵図は「正保国絵図」の写しと考えられるが、津山郷土博物館長の尾島治氏の話では、美作絵図は正保国絵図と相違点も多いので厳密な写しではないよう。しかし、類似点もあり、貴重な資料であることは確かである。資料として活用すれば美作国絵図や美作地域史を研究するのには大いに役立つであろうと言われています。

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▲「美作一国之絵図」