津山藩江戸藩邸

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津山藩江戸藩邸
 江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、江戸と領国の二重生活を送ることになっていました。そのため、大名は江戸に屋敷を拝領し、多数の藩士が単身赴任の苦しさと、大消費都市江戸の享楽の同居する生活をしていました。
 津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄十一年(1698)九月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側に七千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用しました。この鍛冶橋藩邸は後に敷地が加えられ、最終的には一万二千坪ほどになっています。
 江戸の津山藩邸は鍛冶橋藩邸だけではなく、浜町の中屋敷、高田・深川の下屋敷などがあり、それぞれかなりの敷地を有していました。


 江戸藩邸は参勤交代で江戸に上った藩主や、その家族が暮らすためだけではなく、政治的には幕府と藩とをつなぐパイプ役を果たしていました。幕府からの連絡はまず藩邸に伝えられ、そこから国元に伝えられます。逆の場合も同様にします。そのため江戸留守居役は、藩内での身分や格式では家老や年寄の下でしたが、とても重要な役職でした。


 また、こうした津山藩の江戸事務所的な性格と同時に、藩邸は江戸における最先端の学問・芸術を取り入れる[開かれた知識の窓」でもありました。津山狩野派の絵師たちが江戸の狩野家で画を学んで帰ったり、箕作阮甫や津田真道が進んだ西洋の学問を身につけ、世界へ飛躍したのも江戸の藩邸からでした。そしてこうした優れた学者がそろってくれば、今後は情報の発信基地ともなり、文化人・知識人のサロンのような役割も果たしていました。箕作阮甫が島津斉彬から翻訳を依頼されたり、徳川斉昭に紹介されたというのも、このような背景を抜きにしては考えられないでしょう。


 それでは、この江戸藩邸にはどれくらいの人が生活していたのでしょう。文化九年(1812)の分限帳(職員録のようなもの)では百五人、文政十二年(1829)には百五十人藩士がいたことになっています。これには、足軽や中間は含みませんし、江戸藩邸は一つではないうえ、全員が藩邸に住んでいたわけではありませんから確かな人数は分かりませんが、いずれにしても、大坂や京都に滞在している藩士が数人であるのと比べると、その重要性がうかがわれます。


 これら江戸詰めの藩主に対しては、その石高に応じて藩から江戸詰め手当が支給されていました。平均すると、石高の三割五分くらいだったようですが、はたして都会生活にとって十分だったかどうか...。
 このように多くの人々がさまざまに暮らした藩邸も、幕府体制の倒壊とともにその藩邸としての公的な役目を終えます。ただ、上屋敷だった鍛冶橋藩邸は、明治七年、警視庁の設置に伴い、警視庁舎として利用されることとなりました。
(文:復元図『津山学ことはじめー津山歴史散歩百話ー』より)