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幕末の洋学者で、明治の啓蒙思想家として知られる津田真道が生まれたのは上之町で18歳まで過ごした生家跡がある。生家跡の取材はこちら
真道は文政12年(1829)津山藩士津田文行の長男として、ここ津山字林田上(現津山市上之町)に生まれた。幼名を貴久、次いで鶴太郎、また亀太郎と言い、長じて真一郎・行彦と称し、明治維新のころ真道と改めた。
生活は決して恵まれたものとは言えなかったが、真道は幼い頃から読書が好きで「座臥常に巻を釈てず」「津田真道」と伝えられている。
嘉永3年(1850)江戸に遊学して、箕作阮甫、伊東玄朴らに蘭学を、また佐久間象山に兵学を学び、安政4年(1857)には幕府の蕃書調所に出仕し た。文久2年(1862)から慶応元年(1865)まで津和野(島根県)出身の西周(にしあまね)と共にオランダに留学、ライデン大学のS・フィッセリン グ教授のもとで法学・経済学などを修めた。恩師フィッセリング教授旧宅に記念メモリアルプレートが設置されている。
帰国後、幕府直参に列せられ、開成所(東京大学の前身)教授となり、憲法行政法学書の先駆となる「泰西国法論」を刊行し、明治期における三大法律家のひ とりに挙げられる。また、明治6年(1873)新思想団体「明六社」の創設にも尽力し、機関誌「明六雑誌」に多くの啓蒙的論説を発表した。
23年(1890)には衆議院議員に当選、初代副議長を務め、のち貴族院議員として活躍。33年(1900)には男爵に叙せられ、36年には法学博士となったが、同年9月、東京麹町の邸で没した。享年75歳であった。(津田真道・西周顕彰委員会編集発行:波濤を越えてより一部抜粋)