斉野谷観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第86番札所)
斉野谷観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第86番札所)は、加茂町斉野谷地内の、道祖谷山宝蔵寺の下100mくらいの道の脇にあります。下部はブロック、瓦葺の小さな祠です。本尊は聖観音です。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)
斉野谷観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第86番札所)は、加茂町斉野谷地内の、道祖谷山宝蔵寺の下100mくらいの道の脇にあります。下部はブロック、瓦葺の小さな祠です。本尊は聖観音です。(先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)
無量山 極楽寺 大師堂(加茂郷88ヶ所霊場第80番札所)は、津山市加茂町宇野宮の本の、宇野簡易郵便局を左折し、すぐ右の極楽寺境内の観音堂近くにあります。木造瓦葺で、本尊は弘法大師です。(2025年6月13日撮影)
無量山 極楽寺 観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第79番札所)は、津山市加茂町宇野宮の本にあり、宇野簡易郵便局を左折し、すぐ右の無量山 極楽寺境内の向かって左手にある。木造瓦葺のお堂で、本尊は観音菩薩です。(2025年6月13日撮影)
無量山 極楽寺 阿弥陀堂(加茂郷88ヶ所霊場第78番札所)は、津山市加茂町宇野宮の本にあり、宇野簡易郵便局を左折し、すぐ右の極楽寺境内にある。木造瓦葺の本堂の中にある。本尊は阿弥陀如来です。(2025年6月13日撮影)
岩屋寺観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第69番札所)は、加茂町行重坂元地内にあります。
県道から川を越えて少し先の坂道を右に上がったところにあります。本尊は馬頭観音です。木造瓦葺き、漆喰?、白壁、一部板張り。
(先達は木元林造さん)(2022年11月10日撮影)
三浦観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第51札所)は、津山市三浦地内の高台にあります。すぐ近くには、津川神社(通称名 三浦八幡神社)があります。
JR三浦駅の裏道を上がった山の手にあります。本尊は馬頭観音です。木造瓦葺き、公会堂?
(先達は木元林造さん)(2023年3月28日撮影)
下津川観音堂(加茂郷88ヶ所霊場第48番札所)
津山市加茂町下津川にあり、本尊は千手観音です。下津川神社の下約100mの参道脇にあり、木造瓦葺き、土壁(木貼り)の立派な建物です。お堂の中にはたくさんの絵があるそうです。よく手入れされた観音堂です。(先達は木元林造さん)(2022年11月10日撮影)
加茂町公郷にある加茂郷88カ所霊場番外札所の下谷観音堂にお参りしてきました。ご本尊は聖観音です。ご近所の方が御世話しておられるそうで綺麗にお掃除がなされています。また、天井には駕籠があり、昔は救急患者が出た時に載せて走っていたそうです。古き昔の村の様子が聞けました。(先達:木元林造さん)(2022年10月20日撮影)
済露山 高蔵寺(真言宗御室派)の由来
聖武天皇の御代、神亀三年二月、今から約千二百年前に僧行基が創建したものといわれ、観音堂(開山堂ともいう)の本尊は千手観音である。
後醍醐天皇は隠岐配流の時、当寺に立ち寄り、建武中興後千手堂を修補したと云う。
森家の建てた御霊屋(おたまや)には藩祖森長俊の座像を中心に、左右には可児弥五左衛門(かにやござえもん)と河合斉宮(かわいいつき)という初代両家老木像が祀ってある。なお、現在の本堂ともいうべき大師堂には、弘法大師を祀り、高蔵寺中興の祖ともいうべき仁可上人の木像が横に安置してある。(文:『森一族秘話』より転載)
神亀2(725)年、播州佐用郡に虹光に耀き良い香り漂う山があるとの報せを受けた聖武天皇は、行基上人にその調査を命ぜられた。上人は、その山を巡り一心に祈り七日目に白髪の翁が現れ「汝が来るのを待っていた。我が像を刻んで祀らば人々に利益を与えん」と告げ千手観音にその姿を変えた。それから千日かけて彫り上げたのが本尊の千手観音と云われている。古くから朝廷や歴代領主に庇護され、後醍醐天皇は元弘の乱で隠岐に配流された際に立ち寄り、再起の戦勝祈願を行った。江戸時代には三日月藩主・森家の菩提寺となり、霊廟や三重塔が建てられるなど隆盛した。播磨西国三十三箇所10番札所。西日本播磨美作七福神のひとつ。(文:佐用町観光協会HPより転載)
三日月藩祖森長俊が生まれたのは慶安二年(1649)年九月八日で、津山藩二代藩主森内記長継の第八子(五男)として、作州鶴山城中で誕生しました。
三日月藩祖の森長俊は非常に人情に厚かった人で、外寛内勇、諸侯の中でも特にすぐれた人材でした。
長俊は、兄の伯耆守長武によって藩主になることができたので、生涯その恩を忘れず、長俊の邸は目白にありましたが、たびたび長武の関口邸をたづね慰問しました。長武には多くの弟があったが、長武が鉄山と号して関口邸に隠居してからは、皆疎遠になりました。しかし長俊だけはそうでなかったので、長武はその心をほめ、「自分がもしもっと早くに、長俊のこの気持ちを知っていたら五万石を与えたであろうに、惜しいことである」といったといわれています。
父の内記長継は、隠居してから後、竜口邸から芝邸に移って夫人と同居し、長継の死後、夫人は長清院と名のりました。この人は、長俊には義母にあたります。しかし夫人が長俊を愛すること実子のようで、長俊もたびたび訪れて夫人を崇敬し、夫人は珍しいよい品物があると長俊に与え、夫人に事があるときは、子は多かったが、いつも長俊を特に呼んで相談し、長俊はその芝邸で住居しました。