能義山法福寺観音堂(加茂郷88ヶ所霊場番外札所 番外)

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 当寺は公郷字高場にあって能義山法福寺の奥の院であり、聖観音を本尊とする。
 宝永6年(1709)の本堂扁額「能義山法福寺略縁起」によれば、開基は伝教大師最澄(767~822)と伝え、天文年中(1532~54)に山下村高山城主草苅加賀守衡継が寺領31石を寄付し、また大伽藍があったが、戦国の兵火によって本尊を除いて堂塔寺院一宇残さず焼失した。そして宝永6年(1709)に再興が完成したことを記している。(『東作誌』)。以降、西国「八十八ヶ所第16番とし、高場の観音と称し、霊験効しと群参」した(『東作誌』)しかし甲州の人、僧覚心が来住した頃ーおそらく天明2年(1782)大飢饉の前後と思われるが―は、寺は荒廃して「孤梟の栖」となっていた。覚心は「自ら土木を曳、石を荷ひ土を運び、他力を不借千辛万苦して功業を励」み「余力を以て近村隣村の道橋を埋」(『東作誌』)め、寺の再興の原動力となり、また村民によって堂宇が再建立され、奉献された(「軒札」、「飛地境内仏堂誤脱編入願」)覚心は「文化の初年寂すいへとも民今に至て徳を称す」と『東作誌』は書いているが、文化8年(1811)の石灯籠の願主は覚心であり(「飛地境内仏堂誤脱編入願」)覚心の死はその前後であろう。
 法福寺が公郷寺の「飛地境内仏堂」としての地位は寛政9年(1797)の法福寺鐘銘および完成12年(1800)の法福寺軒札が「菊水山公郷寺現在 権大僧都堅者法印霊怱謹誌焉」と記されていることに示されている。明治初年に登録もれがあり、明治41年に「公郷寺飛地境内仏堂」として願い出て、公郷寺に所属するものと認められた。
本尊聖観世音菩薩坐像は、『東作誌』に記され、伝教大師作と伝えられ、元県指定文化財であった。(文『加茂町史本編』より転載)

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能義山法福寺境内

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本堂                      薬師如来

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観音堂

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境内

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山門

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仁王像

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境内の地蔵 (先達は木元林造さん)(2022年11月9日撮影)