取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「博物館」で検索した結果,142件の記事が見つかりました。

急げ!津山洋学資料館新館開館5周年記念企画展

21.jpg

「津山洋学資料館新館開館5周年記念企画展」平戸 松浦家伝来の至宝

 会期:10月11日(土)~11月9日(日)平戸を治めた松浦家に伝来する、貴重な海外交流関係史料です。

 大航海時代、ヨーロッパから出港し、はるかな海路を越えた船が日本へと来航しました。こうして始まった初期のヨーロッパとの交流において重要な役割を果たしたのが、平戸とその領主・松浦家でした。
 ポルトガル船が来航し、オランダやイギリスが商館を設置。幕府によってオランダ商館が出島へ移転させられるまでの約90年間、平戸は「西の都」とよばれるほどの繁栄を極めました。
 本展では、公益財団法人松浦史料博物館の所蔵する資料21点をお借りして展示します。大航海時代から江戸時代はじめの海外交流史を物語る、貴重な資料の数々をぜひご覧ください。(文:津山洋学資料館HPより)

急げ!津山洋学資料館新館開館5周年記念企画展の続きを読む

津山の私設美術館・その他のおススメ(お寺・博物館・資料館)

美.jpg

美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)

津山の私設美術館・その他のおススメ(お寺・博物館・資料館)の続きを読む

六十六部(津山市川崎字玉琳)

66bu.jpg

津山市玉琳 天下泰平 奉納 大乗妙典六十六部日本廻國 日月清明 文化十一申庚八月吉祥日 東新町 願主 みよ
日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経一部ずつ納めることから、この名が起った。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(明治4年11月10日太政官から禁止の布令がでている)

六十六部(津山市川崎字玉琳)の続きを読む

玉琳と因幡往来(津山市川崎字玉琳)

inabakaidou3.jpg

玉琳と因幡往来
 玉琳という地名は、およそ四百年前の修験者河内玉琳に由来する。
ここ玉琳は。森家の街道整備によって一里塚が設置された場所であり、また、出雲街道から因幡道が、北に分岐する場所でもあった。
 そのため、幕末の不穏な情勢の中では、元治元年(1864)城下町周辺の要所八ヶ所に設置された番所のひとつが、ここに設けられていた。(2014年6月23日取材)

玉琳と因幡往来(津山市川崎字玉琳)の続きを読む

出雲街道・因幡往来の分岐点 玉琳の三叉路(津山市川崎字玉琳)

oosumi3.jpg

ここには、信仰に関わる多くの石造物がある。
○回国供養塔《玉琳鎮座の石塔=文化11年(1814)》
回国供養塔は、通称 六部の碑と呼んでいるが、正しくは「全国六十六部廻国供養塔」のことである。世の平穏や民生の安定を願って全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて回る編歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に行脚が大衆化して、村々を回って戸ごとに拝み米や銭のお布施をもらって歩く、遍路姿の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは、廻国道中に仲間や村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりにこうした供養塔を建立した。
 玉琳の三叉路付近は、人の出入りの盛んなまさに交通の要衝の地であり、近くに日吉神社も在ることから、絶好の位置に鎮座して祀られているといえる。(2014.6.15)

出雲街道・因幡往来の分岐点 玉琳の三叉路(津山市川崎字玉琳)の続きを読む

兼田の大きな道標と交通の近代化(津山市国分寺)

kanedabashi7.jpg

兼田の大きな道標と交通の近代化(明治末~)2014年6月29日取材

 津山の最初の鉄製の橋、昭和5年にできた。旧出雲街道の川崎と河辺を結んで加茂川にかけられたこの橋は長さ90.5m、幅5.35m、現在は約70m下流に因美線の跨線橋を兼ねた国道53号線の新兼田橋ができている。

兼田の大きな道標と交通の近代化(津山市国分寺)の続きを読む

美作市立 作東美術館

peine.jpg

美作市作東エリアはフランスのセント・バレンタイン市と「愛」をテーマに国際姉妹縁組を結んでいるバレンタインパーク作東は、「愛」をテーマにした多目的パークがあります。(毎年、12月~2月の期間中は園内がイルミネーション〔20092010、2011、2013〕で彩られます。)そのバレンタインパーク作東内に、世界的に有名なフランス人画家レイモン・ペイネ氏による愛にあふれたキュートな水彩画や版画が約140点所蔵されている美作市立作東美術館があります。なんでも日本でのペイネ作品所蔵数は1位を誇るそうです。上の写真は(作東文化芸術センターの緞帳)ペイネ氏が作東美術館の為に提供された絵です。(2014年8月24日取材)
美作市立 作東美術館の続きを読む

全国の中でも数少ない津山藩の「大名行列図」

大名行列1.jpg

上段左端が行列の先頭です。上段には、本行列の5日前に出発する宿割隊がいます。


(2014.8.6許可済み画像提供:津山郷土博物館)←詳しくはここをみてね!

 津山松平藩第7代藩主斉孝(なりたか)が参勤交代により、津山へ帰国する行列を描いた絵図である。明治17年(1884)製作。襖仕立てで7枚からなり、各縦91㎝、横188㎝。

 津山松平藩は、元禄11年(1698)の美作入国当初は10万石であったが、享保11年(1726)、第2代藩主の夭折により5万石に削減された。その 後、文化14年(1817)、第11代将軍徳川家斉(いえなり)の子銀之助(後の第8代藩主斉民(なりたみ))を養子に迎え、宿願の10万石復帰を果たし た。

全国の中でも数少ない津山藩の「大名行列図」の続きを読む

津山藩主松平家伝来の「兜」

kabuto12.jpg


享和3年(1803)  銘「享和三年二月日」  「明珎宗尚」  津山藩主松平家伝来  個人蔵


津山郷土博物館の3階に展示してあるこの兜ですが、見れば見るほど豪華な飾りです。この正面に飾られてあるのは龍?鯱のようでもあり、何の象徴なんでしょう?また、両耳のところには葵の紋が今でも黄金に輝いています。一見の価値あり。(2014.7.31取材)

津山藩主松平家伝来の「兜」の続きを読む

熊毛槍

keyari1.jpg

岡山県指定重要文化財
熊毛槍
江戸時代後期
 言うまでもなく槍は兵器であり、戦国時代までは装飾の少ない実用本位のものが用いられたと思われるが、徳川将軍家を頂点とする幕藩体制が確立して戦乱が途絶えると、武芸としての槍術鍛錬以外には使う機会がなくなり、その持ち主である武士の身分・格式を表す標識・象徴とみなされ、見せるものへと変化して装飾化が進行、同時に槍の本数や行列中での位置の差異などによる家格の序列化も行われるに至った。槍を立てて持ち歩く場合、最も高い地位にあってよく目立つのが鞘であるが、特に諸大名は趣向を凝らした鞘を作らせ、公式の外出時には行列に加えて高々と誇らしげに掲げたたのである。2014.7.31取材

熊毛槍の続きを読む