
皆戦場〔合戦場〕(草加部)

美咲花山園のあじさい(美咲町)

明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。

天石門別(あめのいわとわけ)神社(美作)

〔大聖寺の概略〕 山号を恵龍山と称し、今をさかのぼる1260余年前、天平10年(738年)、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩により開山、爾来、山岳仏教の聖地として五院(不動院、中院、奥の院など)十八坊舎(松の坊、池の坊、上の坊、地蔵坊など)の塔堂伽藍(とうどうがらん)を誇り真言密教(宗祖、空海)の根本道場として信仰をあつめ西の高野山と称されました。
しかし天正年間(1578年頃)の戦火で塔堂を消失、現在の本堂不動院、本坊客殿などは、津山城主、森忠政公(森蘭丸の弟)により慶長9年(1604年)に城主祈願所として再建されました。
また、当山は、歴代貫主(住職)が、京都蓮浄院(京都御室御所、塔中寺院)院主職をつとめ御所直轄寺院として高禄受祚の寺格を有しました。(文:別格本山 大聖寺案内より)(2014年6月24日取材)
参道
不死鳥の大樹
この大銀杏の木は吉川英治原作、小説「宮本武蔵」に登場する千年杉のモデルとなりました。
武蔵が千年杉に吊り下げられ、山寺の和尚さまに彼の人生について猛省を促される有名な場面があります。
大銀杏は昭和55年夏、落雷の直撃により無残にも瀕死状態となり、樹齢400年の大樹の終焉をはかなみ、あらゆる蘇生の万策を施しましたが回復するに至りませんでした。しかし、翌々年北村団平師(岡山県作東町)によって大木の周囲に十数本の若い銀杏が植樹され胴部に接木する大手術を施したところ見事に蘇生しました。この出来事はテレビ、新聞などによって全国に報道され「よみがえった不死鳥の大樹」として人々に深い感銘を与えました。
昭和63年当山の開山1250年を記念するとともに自らの命を避雷針としてささげ当山建造物を火災から守り身代わりとなったこの大木に感謝の意をこめ日本放送協会のご協力で武蔵・お通の銅像が建立されました。
不死鳥の大樹
大聖寺しあわせ観音 山門
「しあわせの石」
楽寿観音さまのお足元に敷きつめられて色とりどりの丸い石はインド仏尊聖地で採取され日本へ運ばれてきました。この美しい聖石は、幸せを招くお守りとして、いにしえより人々は、競ってこの石を求めガンジス上流へと旅を致しました。
宝篋印塔、稲荷
本堂
『御所 御用駕籠』 長さ520糎
当山歴代貫主が江戸より明治に至るまで京都御所へ年二回参ずる際、使用したものです。
前二人、後二人の担手を要する御所様式です。最大二百余名を従える京都詣では、当山『勅使の間』奥床に配す十六菊紋の御用礼によって道中の安全が保障されていました。又、往路一百里を八日間を要したとも伝えられています。
大聖寺の裏庭 ▲いわ藤
いわ藤
正面中島の、羽状複葉枝に紅紫色の小さな花々が無数に咲いているのが岩藤です。
本州西南部、渓谷岩石上に見られ夏の季語としても有名です。 -岩藤や高根にしずく雨の雲-
大聖寺の裏庭の紫陽花
矢はず銀梅(古代日本アジサイの原種と言われています) 1つ蕾があります。
↑2014年8月29日のアジサイ
↑2014年8月29日のアジサイ
大聖寺 仙翁花せんのうげ(ナデシコ科)
地球上 唯一野生で現存生息するする仙翁です。嘉永元年 京都嵯峨仙翁町(右京区)より移植され現在に至ります。開花は8月中旬以降です。
↑2014年8月29日の仙翁花せんのうげ(非公開ですが特別に撮らせていただきました。)
多宝塔の朱色が鮮やか
観音堂とあじさいロード
七夕まつり
精進料理をいただきました。(2013年)