
2015 第1回 カクテルミーティングに行ってきました(^O^)/

イナバ化粧品店で出逢った可愛い子

津山の今昔を辿ってみました。(1)

行啓道路(津山市山下)

曲水の宴《動画1》《竹内津山観光協会長挨拶》《キャンベルさんのお話》《動画2》
流觴曲水ともいう。「觴」とは盃のこと。陰暦の3月上巳の日や3月3日に開催され、緩やかに蛇行しながら流れる水の岸辺に座して、流れ来る盃が自分の前に到達するまでに詩歌を詠ずるという風流な行事で、古代中国にその発祥があるという。水辺で行われていた禊ぎに関連する行事から、遊興の催事へと変化したといわれる。
中国の事例では「衆楽雅藻」の序文でも「永和之蘭亭」と称されている如く、永和9年(353)3月3日に開催された曲水宴が、後に王羲之の書作品「蘭亭序」により広く知られることになった。
日本にも古くから伝わっていたらしく『日本書紀』や『万葉集』にも曲水の宴を行ったことが記載されている。
明治3年(1870)に衆楽園で行われた曲水の宴では、詩を成した者は盃を取り、できなければ飲めないという定めであったが、流水には盃だけではなく、こなもちや酒の肴も流されており、鴎の群れが波に揺れる様であり、また落ち葉が流れ下っていく様であったと描写されている。(文:公益社団法人津山市観光協会チラシより抜粋)
迎賓館では「曲水の宴」をテーマにシンポジウムが行われました。竹内佑宜観光協会長がコーディネータ、ロバート キャンベル東京大学大学院教授がゲスト、尾島治津山郷土博物館長・小野陽子医師がパネラーでした。
衆楽雅藻
明治3年(1870)3月2日、衆楽園において曲水宴が催された。衆楽園は、松平家が森家から受け継いだ池泉回遊式庭園で、この頃には「北園」と称されていた。津山藩九代藩主慶倫は、庭園を「士民遊観」の場としてその「勤苦」を慰めることができるようにと、庭園を衆楽園と名付けたという。その触書が出されたのが明治3年の正月であった。
そして、その改名されたばかりの衆楽園において、慶倫の世子康倫が催したのが「流觴之遺典」すなわち曲水宴であった。曲水宴には、家臣の中から文雅の士数十人が参加し、至楽の一日を過ごした。またその後3月6日には西御殿において書画会が催された。
この二度に亘る文雅の催しを、書画それぞれの担当者を定め、二巻に記録して残すこととなった。そこで曲水宴の記録を「流觴曲水」、書画会のそれを「翰墨遊戯」と題して二巻の巻子に仕上げた。作成された二巻は、東京の姿見荘にいる確堂のもとにも届けられた。
後に両巻を整理統合、合わせて一冊本として版行されたのが、今に伝わる「衆楽雅藻」である。(文:公益社団法人津山市観光協会チラシより抜粋)
2015年10月17日(土)雲一つない秋晴れの中、衆楽園にて「曲水の宴」が再現されました。
書画をしたためる大杯の中にはコスモス・リンドウ・モミジ・くらやの「衆楽雅藻」
お琴の演奏もあり、優雅なひと時が過ごせました。
姫や侍が準備中 ロバート キャンベルさんも準備OK!
まず、侍の後ろ側から流していきます。
ここを約6分かけてまわって流れてきます。
腰元がしずしずと大杯を運んでいます。
お酌していたお姫様がちょっとつまずいてみんな和みました。《曲水の宴「衆楽雅藻」発見》
勢ぞろいした出演者のみなさんと宮地津山市長、ロバート キャンベルさん
ロバート キャンベルさんはしきりに写真を撮っていらっしゃいました。また、キャンベルさんに津山の印象は?の質問に「ひたすら長くいたい。またいつ来れるかと考えてしまう。郷土博物館に寄り古い文化が沢山あると感じた。津山の人はフレンドリー(斜め後ろから女性によく声をかけられた)。本当に暖かい人たちだ。」でした。
園内は紅葉の兆しが見えて来ています。
関係者の方たちを記念にパチリ!
当日のチラシ