津山土岐家歴史資料展
2019年2月10日(日) ・ 11日(月) 津山市田町の津山土岐家財団記念館にて、津山市制施行90周年記念事業「津山土岐家歴史資料展」がありました。津山土岐家から津山郷土博物館に寄贈した歴史遺産(津山松平藩士の甲冑、刀剣、書画など)数百点のうち、主な歴史資料十数点が公開されました。とても保存状態の良い品が目の前で拝見できました。
2019年2月10日(日) ・ 11日(月) 津山市田町の津山土岐家財団記念館にて、津山市制施行90周年記念事業「津山土岐家歴史資料展」がありました。津山土岐家から津山郷土博物館に寄贈した歴史遺産(津山松平藩士の甲冑、刀剣、書画など)数百点のうち、主な歴史資料十数点が公開されました。とても保存状態の良い品が目の前で拝見できました。
城西地域の中で北西の位置にあり、市街地から少し外れた丘陵地の見晴らしの良い高台にあります。戸数は100戸少々で東西に長く、面積はかなりあるものの家は点在し坂道が多いです。
昔は30戸余りの野菜栽培の専業農家ばかりの小さな町内で、畑地帯で市民の台所でしたが、町の中心部に近いことから新興住宅地として戸数もどんどん増え、今は農家は少なくなりました。笠松地内に西陵団地ができ、やがて独立町内になりました。
笠松の名前の由来は江戸時代この地帯は大きな松が茂り笠のようであったということでです。その松は今は全く無い畑地帯になっています。山を切り開いて畑にしたので山畑地帯とも呼ばれています。
津山藩江戸藩邸
江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、江戸と領国の二重生活を送ることになっていました。そのため、大名は江戸に屋敷を拝領し、多数の藩士が単身赴任の苦しさと、大消費都市江戸の享楽の同居する生活をしていました。
津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄十一年(1698)九月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側に七千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用しました。この鍛冶橋藩邸は後に敷地が加えられ、最終的には一万二千坪ほどになっています。
江戸の津山藩邸は鍛冶橋藩邸だけではなく、浜町の中屋敷、高田・深川の下屋敷などがあり、それぞれかなりの敷地を有していました。
天保五年庚午の年、師走の十五日丑三つ時だった。慌ただしく戸を叩く音に、じいの種右衛門が目を覚まして出て来た。戸をあけると三人組の強盗が押入って来てすぐとっ捕まえられ、次ぎ次ぎに家人をおこして、みんな高手、小手にしばり上げられ、さる口輪をはめられた。家の中をあちこちと探り廻りめぼしい品物をみんな集めた。強盗は三人組であったが外にまだ何人かいるらしい様子だった。衣類や貴重品を出させたが、目ぼしい品物がなかった。蔵をあけて中の品物をとろうと思って、蔵の鍵を出させて蔵をあけようとしたが、この鍵は特殊な鍵で、コザルが五個合わないとあけられない。強盗はあせって誰かこの鍵で蔵をあける奴はいないかと言うた。その時ーウタおばあさんが「妾があけてあげる」といった。強盗はウタおばあさんをほどいて蔵につれていった。
大山みちは、信仰と牛馬の道です。霊峰伯耆大山への参詣を目指す旅人と博労座で開催される市へ向かう牛馬の群れが行き交った道です。大山みちは、岡山市の足守より粟井温泉~掛畑~千升乢~加茂市場~尾原~真庭市鰻田~鹿田~落合~久世~三坂峠~禾津~藤森~延助~内海乢を経て、鳥取県御机~鍵掛峠~大山寺に通ずるルートです。現在ではその殆んどが一般道路に併合吸収され、往時の姿を留めている箇所はあまり見ることは出来ません。
現在、「大山みち」を6分割して、歩く会が実施されていますが、今回はその5回目(5区)に当たります。5区のコースは2コースに分かれます。本道は、柞乢越えで距離も短く急ぎの旅人に利用されて来ました。もう1つのコースは、湯原温泉に1泊して休養を取り、旧二川村の三世七原、小童谷(湯原ダムにより水没)を経由して、野田で本道に合流する道でしたが、現在は消滅してたどることは出来ません。
歩く会は、あと6区を残すのみとなりました。第1回は平成26年に既に終えていますが、釘貫小川から三坂峠を越えて久世に至る峠道です。この間は全体の約70%が山道です。第5・6区も山中の道で、それに次ぐ昔の面影を最も残している区間と言えます。 (第2回の様子はこちら)
忠政の後を継いで津山二代藩主になったのは関家の流れである外孫長継である。1年後の寛永12年江戸に着いたその日の2月11日、池田備中守長幸の息女お鶴(大御前)と婚姻した。その次年の寛永13年には、将軍徳川家光の命により江戸市谷御普請手伝いとあわただしい消光の中、紹向とのトラブルもあった。長継27歳の時である。
長継と紹向は従兄弟同士であって、長継は紹向を「親兄の如く」慕っていたのであるが、妙願寺再建立のことが紹向の意のままにならず、「諸子末寺一等に退院」したのであった。ここに注目すべきは「末寺」という表現である。四ケ寺が建立されて、本願寺がその寺号をいつ認めたかは定かでない。また、妙願寺が造営された後に寺中四ヶ寺誰が寺務をとっていたのかも不明であるが、寺院の形態として、妙願寺境内地南側に長泉寺・養元寺・教念寺・善正寺の四ヶ寺かあるいはその一部の寺が造営されていたことは間違いないと思われる。なお、長継の時代には盛んに寺社の造営が行われている。また、寺社とは別であるがこの頃は嗣子以外の男子に一家を創立させて分地を与え、幕府に願い大名の列に加えることが行われていた。
黒坂の遊屋八幡神社の道を挟んだところに祠が見えた。何だろうと細い道を上がると小さな祠と鳥居がある。見ると若宮様と勝南霊場第16番弘法大師(黒坂)だった。由緒も解らないが丁寧にお祀りされているので撮影し掲載することにしました。
※若宮大神 全国的に若宮という神社が多くあります。この神社の由来は、非業の死を遂げた者がたたるのを恐れて、巫女や神職の勧めで神として祀った場合が多いといわれています。
若宮様・勝南霊場第16番弘法大師(黒坂)(2017年8月20日撮影)
2018年11月17日・18日の両日(9時~16時)に山北の衆楽園で「あ~とふぇす in つやま ~衆楽園を遊ぼう~」がありました。 それぞれ工夫を凝らした作品展示、ワークショップ、
また、白石齊さんの陶芸、田渕智也さんの絵画、山﨑真理さんの苔アート、江見写真館の古い写真などが展示されました。18日は遊興亭福し満の落語、なかまぁずの歌とダンスなど。また、秋の衆楽園を食べよう!と坂本涼太シェフ指導でピザ作りが賑やかに行われていました。
「新野まつり」が2018年11月3日(土・祝)ありました。
作州三大まつりの一つに数えられる「新野まつり」は、新野山形の八幡宮を親神様として二松・天穂日・天津・天満神社の氏子たちが御輿をかつぎ、稲塚野の神事場に集まって豊穣の秋を祝い、新野郷すべての人々が喜びを確かめあい励ましあう一郷一所の大祭である。各神社の社伝は古く伝承行事もさまざまであるが、まつりの形態が今日のように郷土団結の様子を整えてきたのはおよそ室町期の頃であると推定されている。
素朴な農民の心が大切にされ、今日まで受け継がれていることは吾が町・勝北の誇りである。祭日十一月三日
口碑によると、貞観年中(859~877)小桁山極楽寺の僧円仁が、近江国日枝神社の御分霊を迎えてこの山に祀り極楽寺の鎮守としたという。作陽誌に、極楽寺の項の鎮守社山王十禅師とあるのは本神社のことである。最近まで極楽寺住職が例祭には必ず参列するのを例とした。本神仕はもと山王権現社と奉称したのを、明治4年高富神社と改称し、明治6年村社に列した。(文:岡山県神社庁HPより)