法雲山 妙願寺書院北庭に建つ郷(渓花院殿)のお墓

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 忠政の後を継いで津山二代藩主になったのは関家の流れである外孫長継である。1年後の寛永12年江戸に着いたその日の2月11日、池田備中守長幸の息女お鶴(大御前)と婚姻した。その次年の寛永13年には、将軍徳川家光の命により江戸市谷御普請手伝いとあわただしい消光の中、紹向とのトラブルもあった。長継27歳の時である。
 長継と紹向は従兄弟同士であって、長継は紹向を「親兄の如く」慕っていたのであるが、妙願寺再建立のことが紹向の意のままにならず、「諸子末寺一等に退院」したのであった。ここに注目すべきは「末寺」という表現である。四ケ寺が建立されて、本願寺がその寺号をいつ認めたかは定かでない。また、妙願寺が造営された後に寺中四ヶ寺誰が寺務をとっていたのかも不明であるが、寺院の形態として、妙願寺境内地南側に長泉寺・養元寺・教念寺・善正寺の四ヶ寺かあるいはその一部の寺が造営されていたことは間違いないと思われる。なお、長継の時代には盛んに寺社の造営が行われている。また、寺社とは別であるがこの頃は嗣子以外の男子に一家を創立させて分地を与え、幕府に願い大名の列に加えることが行われていた。

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 承応元年(1652)12月、長継は弟の関長政に美作の内1万8700石を与えて幕府に願い出て大名に取りたてた。支藩関氏を興した長政には実子が無かったので長継の15子長治を養子として嗣子とした。後の備中新見藩祖である。また、長継は末弟の衆之にも家を相続させ、第24子の衆利をその養子とした。
 以上のことから、関氏と因縁の深い妙願寺住職やその寺族は、渓花院殿(森忠政の娘で長継の母郷)の菩提寺である禅宗(臨済宗)寺院渓花院に墓所を定めた。
 しかし、年代は下り昭和初年に起こった「渓花院殿墓碑等の破却売却事件」により、廃寺となった渓花院の墓碑等を移動せざるを得なくなった。

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 すなわち、西寺町渓花院(安国寺安田無染住職兼務)が廃寺となり、それに伴い渓花院殿および清光院殿(森忠政の孫で三代住職順恵の室於捨)その他妙願寺住職寺族等の墓碑計十数基および灯籠等が妙願寺(祭祀者)に無断で破棄され、あるいは売却されるという事件が起こったのである。

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 そこで渓花院住職を被告人として訴訟を起こすことになった。しかし安田伊太郎(山下)、菊井伊七郎(桶屋町・当時妙願寺総代)によって和解の話が出、僧侶を刑に処するにしのびず、和解案を受入れることになった。

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 結局、渓花院殿、妙願寺々族石造仏の三基および関備前守長政寄進の灯籠一対および灯籠一基(無名)のみほぼ旧に復することが可能と思われるので、安田住職によって大雄寺本堂裏に整備することでやむを得ず妥協した。昭和2年3月5日のことであった。なお、森長継寄進の灯籠は売却され、東津山北部の丘陵の某氏墓地にあったが、現在田邑の千年寺に移されている。

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 また、昭和24年、如上の事件を耳にした門徒古川嘉十(茅町)は事件の内容に憤慨し、大雄寺本堂裏にあった渓花院殿の墓等三基および灯籠等を現状のまま奉仕作業によって妙願寺書院北庭の現在地に移転したのである。

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 長継の嗣子忠継が亡くなったのは宝永2年(1674)で、忠継の第四子長成(津山四代藩主)は4歳(寛文11年生まれ)であった。そこで長成が成人に達するまでの含みで長継の第五子長義(天和3年5月23日、長武と改名)が長継隠居によって三代藩主の座についた。この条件付き藩主長武は貞享3年(1686)後嗣に予定されていた長成が成人に達したので藩主の座を下りなければならなかった。長武42歳の時であった。最初からの約束とはいえ、心中おだやかでなかった。隠居料として二万石が分知されたが、実際には給地を定めず、相当する現米を藩庫から支出させたのである。長武と長成の間が険悪であったことが想像される。長武は実子がいないため弟の長基と養子縁組をし一家を興そうとした。この縁組は長成の激しい怒りを招いた。このような不穏の動きの中で長武は元禄9年(1696)江戸で没した。52歳であった。法名は、円明院殿前美作国守従四位下行泊州碧雲鉄山大居士である。
 貞享3年16歳で津山四代藩主となった長成の後見は関長政であった。長成は元禄6年(1693)には湯島聖堂の火の番を、同8年には芝増上寺の火の番を命ぜられ、家臣多数を出役させて賦役に疲れた直後、同年10月には中野の犬小屋の普請手伝いの命を受けた。この大事業に対して総元締めになったのが関衆利であった。この犬小屋普請は森藩にとって実に大きな賦役であった。
 生来病弱の長成は犬小屋普清をはじめ藩政に対する疲労から健康を害したが、やや小康を得たので元禄10年(1697)3月、津山城を発して江戸に向った。4月2日、江戸に着いた後も健康に勝れなかった。そして同年6月20日未刻、御歳27にして亡くなったのである。法名は、雄峰院殿前拾遺補闕作州刺史賢仲義英大居士である。
 長成の妻は長府藩主毛利綱元の娘であった。元禄2年19歳で結婚した長成であったが、実子がなかったことは何よりの不幸であった。なお、長成の室は、同年7月18日に毛利綱元のもとに帰り、同14年7月28日、南部備後守久信と婚姻した。同15年7月男子が生れたという。(文:津山妙願寺創建400年記念事業実行委員会記念誌刊行会発行『妙願寺の歴史』より一部抜粋)(2017年10月27日撮影)


妙願時の沿革

法雲山妙願寺は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属し、鶴山御坊ともいう。
山号は森力丸の法名に由来すると伝えられる。森藩時代には寺領二百石を受け、藪山林等を加えると三千石であった。西本願寺の院家寺であり、かつて寺域北側は戸川町東西の道路に接していた。寺中に善正寺・教念寺・養元寺・長泉寺の四カ寺を造営し、美作国内の本願寺派の中本山であり、また触頭として同国内に多くの末寺を擁していた。ここに縁起を略記すると、当山は妙向尼の発願によって美濃金山城下(現在の岐阜県可児市兼山)の建立された寺である。
金山初代城主森可成は、元亀元年(1570)9月織田信長軍の主将として出陣し近江坂本において討死、同年4月には長男可隆も織田軍として朝倉攻めに参加し越前手筒山において討死している。そこで可成の室は剃髪仏門に入り、浄土真宗に帰依した。これが妙向尼である。

天正8年(1580)信長と石山本願寺との10年余にわたる石山戦争の終結をみたが、この和睦の成立には妙向尼の力が大きく働いていた。和睦の条件の一つとして信長はその仲介の労をとった妙向尼に対し、「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息の一人を出家」させて和睦に違反なきよう要求した。こうして本願寺潰滅の危機を救った妙向尼は、信長との盟約を守り金山城の麓に浄土真宗の寺院(妙願寺)を建立し、末子千丸(忠政)を僧形とした。ところが天正10年妙向尼の子息蘭丸・坊丸・力丸3兄弟は京都本能寺において主君信長とともに討死、同12年には可成の後嗣として金山城主であった次男長可が尾張長久手において討死した。5人の男子が討死したことによって忠政は森氏を相続し金山城主となった。そのため妙向尼は、森氏の家臣で関氏に嫁していた忠政の姉碧松院の子竹若丸(成武)を出家させ城下に建立の妙願寺の住職とした。これが初代住職了向である。天正19年(1591)のことである。

妙願寺の寺号は妙向と本願寺の各一文字に由来している。慶長5年(1600)金山から信濃海津城に移った忠政は、同8年18万6,500石の国主として美作に入封した。了向も寺族とともに叔父忠政に従った。忠政は津山築城の工事を終えると、元和3年(1617)城下の要衝である現在地に妙願寺を建立した。元和期よりやや下って忠政の室清泰院は恵心僧都作の阿弥陀如来像を妙願寺御本尊として誕生寺より勧請した。了向の長男志摩丸は初め父の叔父若狭小浜城主木下勝俊の養子となったが、勝俊伏見城退城により妙願寺に移り二代住職となり紹向と称した。津山二代城主森長継は了向甥であり、紹向とは従兄弟である。三代住職順恵の室は忠政の長男重政の息女清光院である。紹向は森家の後見に推され、藩の要職の仕置であった。こうして妙願寺は城主との因縁を保ちつつ世襲により相続し現在に至っている。昭和12年(1937)12月14日払暁元和創建の9間4面本堂は焼失した。そのため、妙向尼木像、森・関両家位牌、忠政使用の駕籠等すべて灰燼となった。加えて昭和20年(1945)9月の津山の水害の節には床上浸水により古文書等の被害を受けた。同年の太平洋戦争終結によって新本堂建立のことが起こり、翌21年に仮本堂が建立されたが、平成7年(1995)の妙向尼400回忌を記念して新しく建立されたのが現在の本堂である。(文:『浄土宗本願寺派 鶴山御坊法雲山 妙願寺栞』より抜粋)