取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「塚」で検索した結果,155件の記事が見つかりました。

観音様(高野山西)

kan9.jpg

高野山西の山の中腹に、地元の人が観音様と呼ぶ建物があるとお聞きし、行って来ました。

 建物は古くなり、お参りする人もほとんどないのですが、「何とかしないと。」と地元の方たちが相談している所だそうです。(2015年3月1日取材)

観音様(高野山西)の続きを読む

五輪谷(高野本郷)

gorin10.jpg
 北山に、こあざ五輪谷といわれるところがあります。
 ここには、くずれ落ちてうもれた五輪墓の墓石がたくさん出てきます。くわしく調べられていないので、どのくらいの数がうまっているのかわかりません。
 今までに、出てきた墓石を一か所に積みあげてありますが、およそ百こ以上もあります。組みたてたら、りっぱな五輪墓となることはまちがいありません。
 では、なぜこの地にこのような五輪石がたくさん出てくるのでしょうか。研究している人の話では、ここにお寺があったのだろうということです。五輪石は仏教の墓だからです。
 石の大きさやかたちなどから考えて、室町時代から戦国時代のおわりまでのものではないかといわれています。さらに、くわしく調べると、文字のきざまれた石も発見することができるかもしれません。

五輪谷(高野本郷)の続きを読む

正仙塚古墳(高野山西)

tsuka.jpg

 山西の丘に、正仙塚古墳があります。
五世紀のころつくられたと、研究者永山卯三郎氏はいっています。
長い間に、古墳の上のもり土が雨などで流され、あらわれたのでしょう。ふたの石は、一枚石で、人の手で、たくみに加工されています。石棺の内がわは、べんがらがぬられています。
古墳の丘の大きさは、今ではくわしくはわかりませんが」、かなり大規模な前方後円墳です。
山西の人たちは、武塚古墳とも呼んでいます。

(文:高野小学校 むかし高野より)2015年1月25日取材

正仙塚古墳(高野山西)の続きを読む

能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)

kitune5.jpg

狐塚遺跡(きつねづかいせき)
 この遺跡は古墳時代後期(七世紀前半、約1300年前)のムラの跡です。津山東中学校の建設に先立ち津山市教育委員会が1973年に発掘調査しました。
 東西100、南北30mの調査範囲から竪穴式住居址二五軒、建物跡十一軒が発見されました。これらの遺構からは鍛冶炉とともに多量の鉄滓(製鉄や鉄加工をした時に残る鉄かす)が見つかりました。鉄滓には、製鉄をした時にできる製錬滓があることや、鉄鉱石の破片が住居内から出土したことから、このムラに住んでいた人々は、製鉄や鍛冶にたづさわっていたことがわかりました。(前回の取材

能万寺古墳群(きつね塚遺跡)(津山市押入)の続きを読む

鶴亀神社(津山市久米)

tsurukame.jpg

鶴亀神社(2014年9月19日取材)
 大字坪井下の鶴坂に「鶴亀神社」という小さな祠があって瘡類に御利益があるとされている。

このお宮については、昔、鶴之亟と妹の亀という兄妹があった。妹の亀は世にも珍しい美貌の持ち主であった。
 亀が18才の時であった。亀に懸想していた中間其は或る夜鶴之亟の不在を見すまして、亀をかつぎ出した。山道にさしかかった時、亀は中間の耳を噛みきったので、中間は怒って亀を殺してしまった。
 やがて、口の中に男の耳をふくんだ亀の死体は発見された。そこで鶴之亟は、耳の無い男を妹の仇として仇討ちの旅に出た。

鶴亀神社(津山市久米)の続きを読む

六十六部(津山市川崎字玉琳)

66bu.jpg

津山市玉琳 天下泰平 奉納 大乗妙典六十六部日本廻國 日月清明 文化十一申庚八月吉祥日 東新町 願主 みよ
日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経一部ずつ納めることから、この名が起った。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(明治4年11月10日太政官から禁止の布令がでている)

六十六部(津山市川崎字玉琳)の続きを読む

古大隅神社(津山市林田)

oosumi8.jpg

津山市林田755(若宮谷)。祭神 大巳貴命(オオナムチノミコト)(大国主命)。少彦名命(スクナヒコノミコト)。森忠政が鶴山城の鬼門の守護のため、元和6年(1620)3月23日大隅に遷座した。村民は氏神を失ったので、跡地に小祠を建てて若宮神社と称した。元禄年間(1697~1703)松平藩の時に大隅神社の旧号をとなえるようになった。末社 御先社、三宝荒神社。(取材:2014.6.15)

古大隅神社(津山市林田)の続きを読む