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キリシタン灯篭

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 ヨーロッパにつたえられた津山
 17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)

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鴨川公園(高野本郷)

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 鴨川公園(津山市高野本郷1620-2)は元津山市立鴨川(おうせん)中学校跡地にある公園です。(1976年鴨川中学、国分寺中学および東中学の一部と統合し津山市立津山東中学校へ)鴨川公園へ伺った時には丁度桜の花が満開で、建物は鴨川中学の跡地に建てられた雇用促進住宅を経て現在はビレッジハウスになっていました。(2020年4月6日撮影)

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後醍醐天皇が渡った「姿見橋」

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 出雲街道は、徳川時代に参勤交代の諸大名が、華々しい大名行列の絵巻物を繰り広げた道筋であり、その昔は官道と呼ばれ、都から石見・出雲地方に文化を運んで作州を東西に貫いた重要路線であった。
また、この道筋は、元弘の乱(1331年)には、後醍醐天皇が北条高時のために至上の御身を、遠流の鳳輦に委ねられ、隠岐の狐島に遷幸の砌、史蹟をとどめられた哀史の道でもある。
 元弘の乱後(1332年)、後醍醐天皇は播州今宿より杉坂峠を越えて梶並川の東岸「火の神」の渡し場に着かれた。この渡し場から川を渡り、渡里・上相を経て、岡の高塚山南麓の丘上に、間山の高福寺の寺領であった草庵を仮の行在所と定められ、仮寝の夢を結ばれたということである。
 翌朝、天皇は行在所をご進発にあたり、その南にある池畔の野橋の上に、暫くご駐輦になり、幾度かの敗戦に、おやつれになった龍顔を、池水に写された。
 この古事を伝えて、後にこの橋を「姿見橋」と名付けたとされている。
 この橋は、昭和47年の構造改善事業のために取り壊されたが、後醍醐天皇をしのび、史蹟碑が建てられ現在に至る。(木村増夫著 『勝央今昔滝川のほとり』より)
平成9年4月 岡地区史蹟保存会

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第23回さくらのうた優秀作品展及び岸田夏子展

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「第23回さくらのうた憂愁作品展」及び「岸田夏子展」が令和2年4月10日~4月12日までアルネ津山4階「津山市立文化展示ホール」でありました。
 美咲町の町木である「さくら」をテーマに短歌・俳句・川柳を募集し、応募された作品の中からさくら大賞、さくら準大賞、さくら賞が選ばれ、日展特選書家の寺坂昌三さんが揮毫した作品が展示してありました。また、「桜の画家」として知られ、現在、清春白樺美術館名誉館長の岸田夏子さんは、洋画家の岸田劉生さんの孫娘です。また、曽祖父は岸田吟香さんです。(上の絵画「櫻香」は岸田吟香記念館で見られるそうです。)

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美作の大庄屋「田中家」(英田郡海内)

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田中家 田中久太夫 英田郡海内村 森藩 沼田藩
大庄屋まで
 田中氏は、三星城主後藤勝基の家臣田中信濃守が祖先であるという。その子次郎兵衛が海内村に帰農し、その子久太夫が森藩の大庄屋に任命された。享保15年(1730)英田郡など3郡1万4000石が上野沼田藩士岐領になると、再び、大庄屋に任命され、代々長兵衛を名乗った。
大庄屋として
 沼田藩は、海内村に陣屋を置いた。田中長兵衛は士分にとりたてられ、年貢の徴収・輸送にあたった。中庄屋として協力した山外野村の黒田家は薬草園経営のも関わっていたという。
 慶応2年(1866)改政一揆が起きると、沼田藩は、鯰村の隋縁寺など領内4ヶ寺に一揆との交渉を依頼、金4000両と米1500俵を一揆勢に渡すことで願書を撤回させた。とくに隋縁寺の僧侶日正上人の活躍があった。上人の墓は妙法寺(津山市西寺町)にある。大庄屋の田中長兵衛も一揆の鎮静化に尽力した。

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石造無縫塔(加茂町塔中)県指定重要文化財

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石造無縫塔(津山市加茂町塔中) 県指定重要文化財
 無縫塔とは、鎌倉時代に禅宗とともに中国大陸から伝えられた石塔で、基礎の上に卵形の塔身が置かれており、卵のように縫い目のない作りから無縫塔または卵塔とも呼ばれています。基礎と塔身の間に柱状の笠と中台をもつ複雑な形状のものを重制、それがないものを単制といいます。禅宗寺院の僧の墓にしばしば用いられています。
  この無縫塔は、津山市加茂町塔中にある文殊堂の裏手にあり、隣の宝篋印塔とともに県の重要文化財に指定されています。かつてこの場所には、天龍寺(京都市)を本山とする末寺があったとされています。総高123㎝で、八角形の基礎、笠、中台の上に塔身を置く重制の無縫塔です。銘文はありませんが、その様式から室町時代初期に建てられたものと考えられます。宝暦12(1762)年に天龍寺がこの地を調査して、無縫塔を夢窓国師のもの、宝篋印塔を開山宝山和尚のものと認定したということが脇に建てられた石碑に刻まれています。

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文殊堂と県指定重要文化財(加茂町塔中)

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  作東誌(文化十二年 西暦一八一五年)によれば、文殊堂は、小中原村成興寺持で松渓庵と称し、文殊菩薩木像を安置するとある。ここにはかつて獅子吼山法音寺(安政四年 西暦一八五七年初屋文書によれば法苑寺とも、文久四年 西暦一八六四年新調の振亀箱には法音寺と記されている)という京都の天龍寺の末寺の禅寺があったが、創建された時期などつまびらかではない。現在の堂宇は、明治時代に火災に遭遇し再建されたものである。往時は御開帳を、旧正月二十五日に大般若経の転読の奉修が行われていたが最近では毎年三月第一日曜日に甘酒供養を、夏七月二十五日には大念珠まわし供養が行われ、知恵の文殊と崇拝されている。堂裏の墓地の一角には、岡山県指定重要文化財(昭和三十四年三月指定)があり、室町初期から南北朝期の様式をとどめる、石造無縫塔と石造宝篋印塔の二基がある。石造無縫塔は京都の天龍寺の開祖の夢窓国師のもの、石造宝篋印塔は松渓庵開山の宝山大和尚のものであると、宝暦十二年六月(西暦一七六二年)に本山天龍寺から来山し古記録と照合認定したという自然石の碑が塔前に建っている。松渓庵をつつむ自然のたたずまいの中に、時の流れの今昔をしのんでいただきたいものである。
塔中部落・加茂町観光協会
平成三年三月吉日

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八木山 知足院 福泉寺(鏡野町)

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  当山は寺伝によれば、行基菩薩が諸国巡礼の折、当地に立ち寄られ自ら観音像を刻まれ安置、寺号を福岡山福泉寺とし、開創されたお寺です。
 その後、弘仁年間には弘法大師も密教を広めるため、当寺に立ち寄られました。その折、寺号を知足院と改められました。そのため、当山は知足院ともいいます。
 宝暦年間に落雷により火災となり、伽藍が悉く焼失してしまいました。
 境内を現在地、米山に移して寺号を八木山福泉寺と称しました。本堂は文政二年(1819)、庫裏は明治元年の建立です。 

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合祀されている大日如来とお薬師様(福井)

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 福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
 これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
 石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
 側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。

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川柳公園(久米南町)

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紫雲山 光嚴院 泰西寺の奥の院
 元の西山寺跡には足王大権現を祀り、泰西寺の奥の院・川柳公園として信仰に観光に脚光を浴びています。(泰西寺から約五百メートル、句碑約三百基が建ち並ぶ日本一の川柳公園です)

季節にはサクラやツツジが咲き競う美しい丘の上の川柳公園は、久米南町のシンボルゾーン。300基以上の句碑を楽しみながらゆっくり歩いてみませんか?川柳の小径は川柳公園に続く遊歩道。公園までのおよそ200mの登り道を木立の脇に建てられた句碑に導かれるようにして進みます。句碑はすべて自然石で、刻まれた句は地元柳人だけでなく、全国からの応募作や著名人のものも多く、読みごたえがあります。(文:久米南町HPより)(2017年4月16日撮影)

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