物見に伝わる千利休の伝説

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利休屋敷
  上加茂村物見のツエガ谷に在り廣さ260坪、口碑に傳ふ千利休此の地に生れ茶道に長ず。天正9年10月羽柴秀吉因州征伐の時中國より美作に入り高山城を攻め物見を越えて因幡に向ふ。利休この時出でて、供奉せしものなりと。里人古來利休の遺風を慕ひ正月元朝挽茶を用うるを例とす。又利休の異名を物草太郎と曰ひしは物見の一字を冒せしものとなりと。屋敷の一隅に利休の末裔八兵衛の墓あり、墓側に周圍二丈に餘る槻の巨樹あり。明和4年八兵衛が天満神社に記念奉納のため栽植せしものにして八兵衛槻と曰へり。樹は大正2年神社合祀の際伐採せり。(文『苫田郡誌』より抜粋)


千八兵衛の墓
 上加茂村大字物見に在り、自然石にして高さ三尺輻一尺餘刻して圓壽奉冷信士と有り。口碑に傅ふ八兵衛は千利休の末裔にして安永7年5月25日此の地に歿せしものなりと。
(文『苫田郡誌』より抜粋)

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物見(天満)神社の参道です。          ツエガ谷。左に利休屋敷跡があります。

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物見神社の隣です。               末裔の八兵衛の墓があったところです。

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墓石は、現在別の場所にあります。        戒名が読み取れます。

 茶人・千利休の末裔の墓。墓碑には「安永七年五月二十七日 圓壽奉冷信士 仙利休末」とある。安永7年は1778年。利休屋敷跡の側にあったものを近年現在の位置に移した。
 利休は大永2(1522)年判納屋与兵衛の四男・四郎として誕生。10歳で成興寺の小僧となり禅学や茶湯を習う。天文6(1537)年に大阪堺の生薬商人・高三隆達と出会い、その才能を買われて堺へ。魚問屋千家の養子になる。後に織田信長及び豊臣秀吉の茶頭を務める。 
 本能寺の変の前年(1581)、秀吉は美作国を落とすため、千利休を道案内に矢筈城を攻撃、成興寺は猛火に焼かれた。奇跡的に焼け残った経蔵の中で、利休は運命の人「ちわ」と出会う。仏像を抱き経文に埋もれたその姿はあたかも菩薩のようであったという。
 その後利休は「ちわ」を京に呼び寄せ、二人の間には八兵衛という子供が生まれました。しかし幸福は長くは続かず、利休は秀吉の勘気に触れ切腹、一家は離散。加茂郷に帰り八兵衛を守り育てるよう利休に請われ「ちわ」は帰郷する。
矢筈城主の家臣・中西孫左衛門を頼り、彼の力と加茂郷の人々によって物見に利休屋敷が建てられた。
 千家の再興が許された後も「ちわ」と八兵衛は権力抗争の中には戻らず、平和な加茂郷こそ人間として生きがいのある地と感じ、利休の霊を慰め、物見の地で静かな余生を送った。八兵衛の名は世襲として代々長男が継ぎ、今も残る墓碑は8代目八兵衛が建立した。
 ※利休の姓は「田中」であり、「千」は田中家の屋号とする説もある。(文:故北村五三氏"郷土史研究家")

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案内くださったのは、物見在住の金尾文正氏です。 

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当日、物見の方たちが作った地産地消のパスタを頂きました。とても美味しかったです。
右の写真は、物見へ行く途中にある花壇。とても綺麗でした。
(2020年8月1日撮影)