キリシタン灯篭

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 ヨーロッパにつたえられた津山
 17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)

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宗教のとりしまり                         (撮影2020年5月25日)
 幕府は、キリスト教をきびしく禁止しました。とくに、1637年の島原の乱の後、幕府はすべての人々に、必ずどこかの寺の信者になることを強制しました。そして宗門改め帳に家族ごと書きこみました。
 結婚や旅行をするときも、寺が信者と認めた証明書が必要でした。村では、毎年だれがどの寺の信者であるかを、庄屋が書き上げて藩にさしだしました。この結果、キリスト教の信者はほとんどいなくなりました。しかし、森藩がとりつぶされた1697年、一人の女性がキリシタン牢にに入れられていました。
 キリシタンの子孫は、キリスト教を信仰しなくても、何代も役人に厳しく監視されました。1725年、津山藩は幕府に対し、キリシタンの子孫の数を、55人と報告しています。

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丹後山にあるキリスト教の墓地          丹後山から見る津山城跡(撮影2010年2月25日)


日蓮宗の不受不施派は法華経を信じない者からの施しを受けず、また施しをしなかったため激しい弾圧をうけました。

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福田の比丘尼塚(2013年10月30日撮影)     5人をまつった慰霊碑

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不受不施派の僧たち5人が食を断ち命をおとした古墳(福田剣戸塚)(2013年10月30日撮影)
 福田の比丘尼塚は、岡山藩の弾圧からのがれてきた日蓮宗不受不施派の信者五人がなくなったところです。
 津山にも明治になって禁止がとけるまで不受不施派の信仰をひそかに続けた人たちがいました。
 村の神社は、氏神さまともよばれ、村人たちによって祭りなどが行われました。村には、このほかにも災害や病気から人々をまもる荒神や、火災をふせぐ愛宕様、土地をまもる地神などがまつられていました。これらの信仰の上でも村人はつながりをふかめていました。(文:津山市教育委員会発行『わたしたちの津山の歴史』より)