岸田吟香記念館(美咲町)

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美咲町旭文化会館(図書館、岸田吟香記念館)(美咲町西川1001-7)
 岸田吟香は天保4年(1833)4月28日に久米郡中垪和谷村(現在の久米郡美咲町栃原)で父、秀次郎、母、小芳の5男3女の長男として生まれる。
 幼少年時代の吟香は、大きな体で活発な子どもであったという。幼い頃から神童といわれ、4歳の頃にはすでに「唐詩選」を暗唱していたことからもいかに秀才だったかがうかがえる。5歳のとき、垪和の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学び、12歳で坪井の大庄屋、安藤簡斉のもとへ学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間。この2年間で、坪井で学ぶものはないとみた簡斉は吟香を津山へ出し、はじめ永田孝平、次いで植原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則に就いて剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間はほぼ5ヶ年、その間津山郊外の高田村にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や日本外史などを教えながら、勉学につとめていた。

 吟香は、いくたびか名を変え、号や別名をたくさんもっていた。幼名は辰太郎、太郎、達蔵、弥子麻呂、清原桜、東洋先生、墨江桜、墨江岸桜、岸吟香、岸太郎、岸国華、墨江岸国華、吟次、小林屋銀次、岸田銀治、岸田銀次、岸田屋銀次、京屋銀次郎、岸田朝臣桜、吟道人、等多くあるが、明治31年以降は、公式の文章などにはすべて「岸田吟香」と署名している。

吟香の名前の由来
 吟香という名前も陸放羽の「吟到梅花句亦香」という句からとったのではなく、口から出まかせに、銀次と申しますと言ったのがはじめである。太郎としたのも、大名のところへかかえられて、大名の息子に辰というのが居るから辰という字をとりのけて太郎とした。「ままよのぎん」と名前を変えたのも、気ままに暮らす方が一生の得と思いついてつけた名前。
(文:岸田吟香記念館『岸田吟香』より)(2019年8月18日・9月5日撮影)

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美咲町旭文化会館(図書館、岸田吟香記念館)   1Fは図書館となっています。

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2階の廊下には、吟香の四男で麗子像で有名な画家の岸田劉生さんの紹介パネルがあります。

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岸田吟香記念館です。              奥の部屋に行くと沢山の展示物があります。

吟香の主な業績

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和英・英和辞書の出版              日本で最初の新聞発刊者

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定期航路の開拓者                製薬業界への貢献者

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石油採掘業の先覚者                 広告業の先駆者

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日本語の平易化・大衆化              日本初の従軍記者

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水溶性目薬の創始者               製氷業の先覚者

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盲唖学校の創設者                日本と中国の親善大使


その他
 日本薬学会評議員、全国薬業組合会頭など、薬業界で重きをなし、阿片撲滅をめざして活躍。

生卵をご飯にかけて食べた人(卵かけご飯取材記事)
 「明治初期の記者、岸田吟香翁」に翁(吟香)は毎朝、旅舎の朝飯に箸をつけず、兼ねて用意したのか、左無くば旅舎に云付け鶏卵三、四を取り寄せ食すだけの温飯一度に盛らせて、鶏卵も皆打割、カバンから焼塩と蕃椒を出し、適宜に振りかけ、鶏卵和にして喰されたものだ。との記載があり、このことから日本で卵飯を、常食にしたのは岸田吟香といっても間違いないと思われる。

あとがき
 岸田吟香は、明治38年(1905)6月7日に72歳で亡くなるまで、あまりにもいろいろな面で活躍しており、その事業も今の時代を先取りしたものといっても過言ではない。従って、激動の時代を走り抜けた先駆者のほんの一部しか紹介できないので、吟香の偉大さを十分理解いただけないと思われる。麗子像で有名な洋画家の岸田劉生は、吟香の四男であり、五男の辰彌は宝塚歌劇団の演出家でわが国のステージに初デビュー、モン・パリを送り出し、ラインダンスを考案した人である。(文:岸田吟香記念館『岸田吟香』より)