左:出雲、右:京大阪道。坪井町東角に道しるべ

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 現在、津山郷土博物館の前に、「左・出雲」、「右・京大阪、左・一ノ宮」、右・出雲」、「明治16年8月建之、坪井町」と刻まれたあ石碑が建てられている。この石碑の文字はもう少し続くが、埋められているためこれ以上判読することはできない。この道しるべについて、今井三郎さん(故人)は『津山坪井町の歩み』の中で次のように取り上げている。
「坪井町一番地の東南の角、道路に沿って大きな津山石製の道標があった。いまは撤去され、津山郷土博物館に保管してある。高さ五尺(約1.5㍍)、幅九寸(約27㌢)の四角柱形の立派なもの。文字は赤松寸雲先生。時代のずれと舗装道路改修で廃棄された。文字は"右・京大阪、左・一ノ宮""右・出雲街道""明治16年8月建之、坪井町、志茂意平、田口半治郎、片桐秀吉"とある」

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 文字は四方に彫られ、いま一面に「左・出雲」がある。坪井町表通りの東端、突き当りの三丁目の家並みに沿って立てられていたようである。西に向いて、「右・京大阪、左・一ノ宮道」の文字があり、北の鍛冶町側に「右・出雲街道」、三丁目側の南に「左・出雲」、東面に「明治16年8月建之・坪井町、志茂意平、田口半治郎、片桐秀吉」とあった。

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これまでふれたように、津山の町を貫く出雲街道は西から安岡町、茅町、西寺町、西今町、宮脇町と続き、途中に分かれ道はあっても、本通りは坪井町までスムーズにたどれる。その街道が初めてぶつかるのが現在たどっている坪井町東端の三差路である。当然、道しるべがあってもよい地点である。
 現在、わかっている郷土博物館が保存する明治16年の道しるべ一つだが、それ以前から立っていたとも思える分かれ道である。明治16年は江戸期の古い道しるべを新たに立て替えた時期かもしれない。その頃をしのぶべくもない変化だが、少なくとも、この道しるべは坪井町の盛んだった往来をうかがわす。石碑を建立した田口半治郎は坪井町1番地、志茂意平は同47番地、片桐秀吉は同48番地に住んでいた地元の人である。

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郷土館へ移したのがいつかはっきりしないが、昭和28年8月に坪井町の表通りを、アスファルトで再度舗装修理した時ではないかと思える。道しるべをはじめ、往来の人々に親しまれて来た石碑、地蔵が姿を消したのは道路改良工事が一つのきっかけであった。交通の近代化が最大の理由である。

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 この後、昭和28年の改良となるが明治末から大正年間にかけて、津山にも自転車が普及するようになり、また、タクシーも走り始め、道しるべを見ながら歩いていた江戸期以来の交通が変化していく。道路舗装がその変革をよく示しているのだが、昭和11年1月3日の津山朝日新聞紙上に「アスファルト偶感」と題して、次のような寄稿している。
「昭和10年10月"ピンとはねたる津山の大の字と"今日なお封建300年間の夢を重宝がりつつある城下町にアスファルト舗装の完成を見たことは、一大センセーションをまき起こしたわけであります。この大工事によりまして、津山市表9か町は、が然そのかたち正しました」と喜びを現わしている。
当時としては画期的な道路あるいは交通改革だったようだが、ここから津山の町を東西に走る出雲街道の新しい時代も始まり、やがて道しるべも役割に終止符を打っていく。(文:『小谷善守著:出雲街道第5巻』より)(2020年6月2日撮影)