本光寺の百日紅(サルスベリ)
2016年8月11日に百日紅の木を撮影しに本光寺を訪れて来ました。(2015年12月7日撮影)
本光寺には、本光院殿(松平主馬康矩の室となった於鍋)、継光院殿(長継側室於偕)、梅雲院殿(長継側室於つま)・守光院殿(長継乳母)ほかのお墓があります。尚、於偕は本光院のほか、森對馬守長俊 関備前守長治、防州徳山藩主毛利飛弾守元次の室となった於千、また良洪院殿(大吉)ら五子の生母である。継光院は当地墓所に地蔵尊のお姿でおわします。(2009年4月5日撮影)
2016年8月11日に百日紅の木を撮影しに本光寺を訪れて来ました。(2015年12月7日撮影)
本光寺には、本光院殿(松平主馬康矩の室となった於鍋)、継光院殿(長継側室於偕)、梅雲院殿(長継側室於つま)・守光院殿(長継乳母)ほかのお墓があります。尚、於偕は本光院のほか、森對馬守長俊 関備前守長治、防州徳山藩主毛利飛弾守元次の室となった於千、また良洪院殿(大吉)ら五子の生母である。継光院は当地墓所に地蔵尊のお姿でおわします。(2009年4月5日撮影)
2016年8月23日撮影
むかし(安土桃山時代であろう)津山に皈恵比寿屋善六という雑穀商がいて、その名前とは正反対に2種類の升を使って客をだまし、暴利をあげていた。妻 は亭主の悪意を心に病んでついに亡くなったが、その後善六の友人が旅をして小田原を通りかかると妻の幽霊が出て、「亭主の悪事が気がかりで成仏できない、 この有様を亭主に伝えてくれ、ついては信用できないだろうから私の片袖を持って帰ってくれ」この話を聞いた善六はついに改心し、全財産を投じて妻の菩提を 祈るため現在の二階町あたりに寺を建立したとのことである。
久米町史によれば観世音菩薩とあり、中の地蔵には、神實山 願主 信州竹馬群今井村・・・と彫ってあります。この霊場は、慈恩寺の案内石柱があるとおり、慈恩寺へ行く途中の急なカーブの所に立っている中部 第四十四番霊場です。「昔は20人~30人の方がお参りに来られて賑やかでしたが、今では少なくなって10人程の方がお見えです。」と慈恩寺さんから教えていただきました。(2014年9月18日取材)
2015年12月6日(日)津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐり「森長継の生母 渓花院ゆかりの史跡探訪」があり、宗永寺(本堂内・森家墓所)を拝見してきました。
宗永寺の由緒:山号は法源山、臨済宗東海派。長継が生母・渓花院の供養のため創建。家臣の市村重政・各務元正を奉行として堂宇を建立させ、明暦2年(1656)落成。方丈・書院・庫裏・廊下・中門・外門など、いずれも美麗を極めたという。渓花院の住持・正伝を開祖とし、渓花院の法名にちなんで宗永寺と命名、寺領として150石を寄進。森家の改易後は徐々に衰退し、天保年間に火災に遭うなどして、伽羅は昔の規模をとどめていないが、幕末に田中諦堂が住職となり、堂宇の修繕に努めた。明治17年(1884)の時点で境内は東西19間(約34m)・南北49間(約88m)あり、現状よりも北に大きく広がっていた。現在の本堂はかつて観音堂で、33体の観音像のほか、渓花院をはじめとする森家一門の位牌を安置する。(矢吹正則『津山誌』ほか参照)(文:津山郷土博物館友の会 第107回 文化財めぐりより)
油地蔵(岡山県指定重要文化財)
字 石佛の土中より堀り出されたもので旧県道沿いに安座していたものを大正14年東光寺山門前に移したもの。花崗岩の上部を舟形におとし佛像を刻んでいる。右手には錫杖、左手に宝珠を持つ延命地蔵の相で重厚の感じの像容である。
左に「庚暦二庚申二月二十九日亥午後」(1380年)右脇に願主円佛敬白の銘がある。油をかけると如何なる難病にも御利益があると云われその為、油地蔵と呼ばれている。
県内外からの参拝者も多い。昭和34年1月13日、県の重要文化財として指定される。
油地蔵の由来(2015年12月7日撮影)
作陽誌は昔此の地にあった香華寺の貴跡としている石仏の長さを4尺7寸、おそらくは中世の室町期寺蔵信仰が最も盛んな頃の刻遺であろう。
惜しいことには年月日記載がない。もと路座でものを宝永5年藩主松平家の許しを得て茅葺の堂舎を建て後瓦葺きに改めた。
明治中期に大改修を施し今の台石を設けたものである。
作は巧妙とは言われないが六道能代十分遍歴の姿を表して民俗信仰の貴重な資料で、油をそそぐのは立顔また満顔に行う献灯供養の儀である。
今、県指定の文化財なっている勝田郡勝央町車充寺の油寺蔵と並ぶ保存を要する文化財である。
(以上津山市教育委員会調査原文の写)
この地蔵の由来
この石仏は昔から小原、一宮街道に常に転んでいるので「こけ地蔵」と呼ばれて悪病除のご利益もあって、小原の名物となっている。
且っては若者達の力試しの為に利用されて遠く八子、総社迄転んだと云われて居る。その為、石仏体はかなり摩滅している。石仏の由来についてはさだかではない。平成14年10月吉日 小原町内会・小原東老人クラブすみれ会(2016年2月5日撮影)
高野山西にぽつりと立っているお地蔵様がいる。(2015年4月9日取材)
森忠政が津山城の築城に際し、石垣に使用する石材の切り出しをこの地にて行いましたが、事故などが少なくありませんでした。そのため、家臣に命じて摩利支天を勧進し、お祭りしました。それ以来、庶民の祈願所として崇敬され、石山摩利支天として今日に至っています。
この間、元真嶋郡(現・落合町)にあった極教寺を津山市山方の古観音寺に再興し極教寺とした寺と、明治43年に旭町の南光寺と石山摩利支天堂を合併し、大 谷の現在地に極教寺を移転しました。しかし近くに極楽寺という寺があり混同されることもあったため、昭和12年に寺名を今日の「石山寺」と改称しました。(2009年の取材はこちら)(2009年の紅葉・2010年の桜)2015年4月12日取材
当山は天台宗二祖慈覚大師の創建による。
今からおよそ1150年の昔、開祖された円光寺は、当時その他に大日堂、薬師堂、西光寺、因果寺、宝林寺等の多くの諸堂があった。しかし、天文、永禄(1559年)の頃から次第にすたれはじめ、元禄2年(1689年)には、現在の円光寺だけとなった。
仁和3年(887)~寛平9年(897)代に精舎の創建を見るに至ったと伝えられている。当時は、宇多天皇の宇多をとって宇多寺と呼んだ。(2014年3月29日)