お地蔵様(高野山西)
高野山西にぽつりと立っているお地蔵様がいる。(2015年4月9日取材)
高野山西にぽつりと立っているお地蔵様がいる。(2015年4月9日取材)
森忠政が津山城の築城に際し、石垣に使用する石材の切り出しをこの地にて行いましたが、事故などが少なくありませんでした。そのため、家臣に命じて摩利支天を勧進し、お祭りしました。それ以来、庶民の祈願所として崇敬され、石山摩利支天として今日に至っています。
この間、元真嶋郡(現・落合町)にあった極教寺を津山市山方の古観音寺に再興し極教寺とした寺と、明治43年に旭町の南光寺と石山摩利支天堂を合併し、大 谷の現在地に極教寺を移転しました。しかし近くに極楽寺という寺があり混同されることもあったため、昭和12年に寺名を今日の「石山寺」と改称しました。(2009年の取材はこちら)(2009年の紅葉・2010年の桜)2015年4月12日取材
当山は天台宗二祖慈覚大師の創建による。
今からおよそ1150年の昔、開祖された円光寺は、当時その他に大日堂、薬師堂、西光寺、因果寺、宝林寺等の多くの諸堂があった。しかし、天文、永禄(1559年)の頃から次第にすたれはじめ、元禄2年(1689年)には、現在の円光寺だけとなった。
仁和3年(887)~寛平9年(897)代に精舎の創建を見るに至ったと伝えられている。当時は、宇多天皇の宇多をとって宇多寺と呼んだ。(2014年3月29日)
新屋敷 薮の鼻のお大師様
新屋敷あたりは昔竹薮が多く、その鼻先(前)薮の鼻となったようだ。その薮の鼻にあるお大師堂は寺町の愛染寺の奥の院であり、1605年金剛寺(岡山市)より畠山快雲が美作の地に来て薮の鼻に庵を建てた。その後に快雲により愛染寺が建立された。又、大師堂境内入ってすぐ右側には上浜恵海尼についての碑がある。現在のお大師堂は3回目の建て替えで新しい。毎月20日に愛染寺の住職、信徒による法会が行われる以前はお遍路さんがよく参ってこられていた。現在でも参ってこられますとのこと。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
道祖神の場所から西へ40メートル程進んだところに権ノ庄のお大師様があります。建立された年度は不明ですが、元々紫竹川の氾濫の多い場所を鎮める目的で、紫竹川から少し小高い部分に建てられたいたことが、付近の地名に安岡屋敷そうき畑の地名が残る事から分かります。現在は老朽化の為に平成16年12月に町内会と個人寄付により建て替え落慶法要を済ませました。その後、年二回の老人会の行事として長雲寺の住職の導師作法により法要を営んでおります。(文:つやま城西まるごとまち自慢より抜粋) 2015年4月8日取材
しづな山をこす因幡往来(2014年12月9日取材)
古い時代の管道(国道)である出雲街道は、日本海がわの出雲地方と国の中心だった大和地方をむすぶ重要な交通路でした。岡山県内には、七つの宿場がつくられており、大名行列の通った道でもありました。
鶴亀神社(2014年9月19日取材)
大字坪井下の鶴坂に「鶴亀神社」という小さな祠があって瘡類に御利益があるとされている。
このお宮については、昔、鶴之亟と妹の亀という兄妹があった。妹の亀は世にも珍しい美貌の持ち主であった。
亀が18才の時であった。亀に懸想していた中間其は或る夜鶴之亟の不在を見すまして、亀をかつぎ出した。山道にさしかかった時、亀は中間の耳を噛みきったので、中間は怒って亀を殺してしまった。
やがて、口の中に男の耳をふくんだ亀の死体は発見された。そこで鶴之亟は、耳の無い男を妹の仇として仇討ちの旅に出た。
美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)
津山市玉琳 天下泰平 奉納 大乗妙典六十六部日本廻國 日月清明 文化十一申庚八月吉祥日 東新町 願主 みよ
日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経一部ずつ納めることから、この名が起った。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(明治4年11月10日太政官から禁止の布令がでている)
現在の公会堂があるところが、地蔵堂と呼ばれている。東作誌に地蔵堂(小庵あり林田上ノ町大信寺持)。地蔵堂(御薮坐の内にあり)二か所ある。(2014年6月26日取材)