取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「山」で検索した結果,3340件の記事が見つかりました。

工門の津山元標三里(新野東)

genpyo1.jpg

距津山元標三里 新野東(明治5年9月/距津山元標三里/勝北郡新野西村字中野)
 勝北町新野東、新野郵便局東、国道53号線沿いに里程標がみえる。もと同町西下を通る因幡街道に設置されていたものを現在地に移転したものである。
 当時この県の道路元標は津山宮川大橋西詰に設置されていたので、ここまで至る里程を示したもので、移転により多少の相違があるかもしれない。昭和48年 町指定文化財

工門の津山元標三里(新野東)の続きを読む

塞の神(野村)

sainokmai1.jpg

2014年10月8日に津山老人福祉センターに集合して、「平成26年度 津山歴史講座 第7回(現地見学)大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―美作の歴史を知る会 宮澤靖彦・多胡益治」があり参加して来ました。最初に野村の保田家に伺う為細い道路に入る手前に塞の神様が祀られていました。
塞の神
 塞の神は、「才の神」ともかく。もと境の神である。村の境や峠等に祀り、外部から侵入する悪霊を防ぐのが目的だった。
 この塞神三注は一般のそれと異なり、排仏毀釈の運動と関連がある。時代の動きに敏感で、国学に造詣の深い保田定静氏は地蔵を移し塞神を祀った。 塞神三注とは、久那斗神、まる岐神、道の神をいう

塞の神(野村)の続きを読む

虚空蔵山 求聞持の寺(東田辺)

2-21gumon2.jpg

虚空蔵山 求聞持の寺(高野山真言宗 美作八十八ヶ所霊場 第74番)
 萬福寺に如意宝珠をお奉りする融通堂があったとのいい伝えがありました。由来は萬福寺と同じです。
 平安時代後期の経塚と如意宝珠を護持するために、實仁和尚が昭和五年融通堂を再建され、昭和五十八年四月二十一日に本四国八十八ヶ所霊場を勧請すると共に、求聞持の寺として新寺建立されました。

虚空蔵山 求聞持の寺(東田辺)の続きを読む

美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)

mitsui-1.jpg

光井弥太郎尚常(河面村)
 河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。

美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)の続きを読む

美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)

kozue22.jpg

保田市郎右衛門(野村)
 野村は東南条郡に属し、東端を加茂川が流れ勝北郡近長村へ続く。東作誌によると慶長以前美作国七郡の時は北の草加部村を山形と称し野村を里方と呼んだ。慶長年中に郡を分けて東北条郡草加部村と東南条部野村に改称している。正保郷帳では田方二百九十一石余、畑方三十四石余である。森家断絶後も津山藩領として続く。  

美作東部―大庄屋巡り「保田市郎右衛門」(野村)の続きを読む

津山線マルシェに行って来ました。

senkei8-10.jpg

津山線開業120周年を記念して「津山線マルシェ」が2018年8月26日10:00~15.30までありました。このマルシェは、津山線沿線の魅力をたっぷりお届け!するというイベントです。この日は台風20号の影響で臨時列車が急遽取りやめになり少し残念でしたが、幸いにも大した被害もなく晴天に恵まれ、親子連れのお客様が多く来られてご当地グルメを堪能されていました。

津山線マルシェに行って来ました。の続きを読む

植月城跡(小山城)(宮山城)勝央町

uetsuki8-9.jpg

 植月城跡 勝田郡勝央町植月中字小山(岡山の中世城館跡) 
永正九年(1512)宮山城と改名する。10㍍余りの高台のうえにあり、本丸は一三間×一三間、二の丸は一八間×一八間、北側に約一間半の築地が現存する。
 菅原満佐の四男公興が宝治2年(1248)、植月、広野の地頭職となった時築城したといわれ、植月一族の本城である。城主は公興ー安嗣ー重嗣ー重佐ー重長ー重可ー可直ー佐豊ー基可ー重直ー重豊ー重政ー基佐ー能佐ー佐峻ー佐教。
 四代重佐は菅家一族とともに京都六波羅討伐に出陣戦死す。この功で大正5年正五位の追賞をうける。(城跡に記念碑が立つ)永正9年城主基佐は、日吉神社を現在地に遷座し、本城も宮山城と改名する。三星城に味方し出陣するも、城主佐教をはじめ多くの一族戦死する。城は岡豊前守が接収、城主となる。毎年4月8日、植月一族城跡に集まり、先祖供養を盛大に行っている。(文:『勝央町誌』より)(2018年8月18日撮影)

植月城跡(小山城)(宮山城)勝央町の続きを読む

新善光寺の六体地蔵(津山市中村)

rokutaijizou-5.jpg

 六体地蔵はいづれも墓地の入口などに建てられており、この世を去った人々が弥勤の現れるまで迷わぬよう墓地のそばで見守っている。
 地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六つの世界を指し生まれ変わり、死に変わる迷いの世界で苦しむ人々をそれぞれの菩薩がそれぞれの苦しみによって救済するといわれ、室町時代にはじまり江戸時代にはいろいろな形状に造られるようになった。町内のものは、いづれも舟形半肉彫りの整ったものがおおい。

新善光寺の六体地蔵(津山市中村)の続きを読む

地蔵菩薩(津山市中村)

jizou-3.jpg

 地蔵さんは、もっとも庶民にしたしまれた菩薩で髪を高く結んだり、美しい着衣で身を飾るようなことはせず、頭は剃髪し僧侶のように衣をまとい手に錫杖と宝珠をもっている。
 このように地蔵菩薩は比丘の姿で遊行し、多くの衆生に接し救済するといわれている。
 また年号や、願主名を刻まないものが多く、いかにも街道を行く衆生を対象とした純粋な信仰として造立された趣はほほえましい。  
 また地蔵さまは色々な俗称で呼ばれることが多く、何事にも成就がかなう仏で崇拝され、また地蔵にまつわる伝説もおおいい。 新善光寺地蔵菩薩 中村 新善光寺 地蔵菩薩立像 一体
(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)(2018年8月18日撮影)

地蔵菩薩(津山市中村)の続きを読む