取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「森忠政」で検索した結果,144件の記事が見つかりました。

成道寺

慶長9年(1604)に津山藩主の森忠政建立したお寺。表門は明治35年各個(1902)に元津山藩庁ならびに北条県庁の門を譲り受けている。元津山藩庁の門だけにあって、普通の仁王門とは違い、頑丈な扉と北側に番士部屋のある厳重な構えになっています。本尊は阿弥陀如来。
津山を代表する俳人西東三鬼の墓碑があるそうです。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/jyodouzi/index.html

東海山 本源禅寺 (小田中)

mae598_001.jpg

 寺の前身は神戸(じんご)村にあった南北朝期の安国寺と伝えられています。寛永16年に本源院忠政の御霊屋が完成し、天和3年(1683)忠政の50回忌にちなんで本源寺と改称した。境内の墓地には森氏代々の五輪墓がある。
森家大名墓と御霊屋・表門は津山市指定重要文化財(建造物)。木造森忠政公坐像は津山市指定重要文化財(彫刻)。
2009.1月取材

https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/hongenzi/gallery.html

妙法寺

妙法寺は山名美作守忠政が鶴山柳の段に妙王院を創建(1440年頃)したことに始まる。1570年頃中興法恩院日充上人が妙王院を妙法寺と改称する。森忠政が美作に入り(1603年)築城地を鶴山に決定した。これに伴い妙法寺を南新座へ移した。その後、城下町造営の拡大に伴って、西寺町の現在地に移った(1617年)。
現在の妙法寺本堂は、県の重要文化財に指定されており、正面5間(16.9m)側面(18m)の大きな平面を持った堂宇である。鬼瓦の側面の記載により1653年頃の完成と思われる。他に市の重要文化財に指定されている鰐口があるが、この鰐口には(慶長18年(1614)年暦9月21日作州富川村妙法寺)とあり、これが(津山)の名称の、現在確認できる最初の使用例とされている。境内には、津山藩松平家絵師狩野如林、森家刀匠兼景、文人画家飯塚竹齊、女子教育の先駆者竹内文子などの墓がある。(情報提供:妙法寺)
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/myouhouzi/index.html

泰安寺

当山は詳しくは、天崇山泰安寺と称する浄土宗の大本山知恩院の末寺で美作国での大寺である。
慶長8年(1603年)信州川中島から津山藩主として入国した森忠政に従って来た旧領美濃国の金山涅槃寺住職前蓮社眼誉が南新座に創建した覚王山涅槃寺からはじまる。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/taianzi/index.html

蓮光寺

津山市林田は、中世には林田郷と呼ばれ、この地方の交易、文化の中心として、田中郷、戸川の宿と共に栄えた。林田郷はまた、津山に於ける日蓮宗発祥の地でもあった。
慶長8年、森忠政津山入府の後、慶長15年(1610)本光院日秀は、この地に明星山蓮光寺を開いた。開基檀越は金谷佐大夫夫妻である。
寛文年間となり、徳川幕府の日蓮宗への禁圧、所謂寛文の法難により、寺運は衰微を極めたが、延宝年間、第5世是音院日厳の入寺により再興される。下って天保末年に至り、火魔により本堂を焼失、嘉永元年(1848)第25世浄真院日誠により再建された。
昭和58年11月、第34世智寂院日照は本堂の昭和再建を発願し、檀信徒、法縁314名の浄財により、無縁墓地、納骨堂、歴代住職の墓地の造成、寺域の整備等を併せて施工し、本堂は昭和61年(1986)5月に上棟、同年12月に完成し、昭和62年10月10日に落慶法要を奉行した。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/jyoto/renkouji/index.html

津山城(鶴山公園)の石垣についてその3

その1その2その3その4その5

yagura-thumb-600x450-5602.jpg

津山城を築城した森忠政は信州川中島の海津城から慶長8年(1603)に美作国1円18万6500石を与えられ、美作に入封しました。そして翌慶長9年(1604)に津山城築城を開始したのです。まさに関ヶ原以降の大名の転封、それに伴う新規築城という全国的な大きな流れに乗ったものです。

参考までにこの時期の外様大名による築城例をあげると、加藤清正の熊本城、細川忠興の小倉城、加藤嘉明らの伊予松山城、池田輝正の姫路城、藤堂高虎の伊賀上野城、伊達政宗の仙台城など日本を代表する城があり、津山城もそれらの城と匹敵する規模の城郭でした。さらに、津山城の築城は元和2年(1616)まで続くのですが、これは元和元年の武家諸法度の公布により築城を終了し、一応津山城の「完成」としたものと思われます。(津山城百聞録より抜粋)

2ishigaki5.jpg

▲津山城の石垣。扇の勾配(65度前後が人の目からみて一番美しいといわれている。)

津山城(鶴山公園)の石垣についてその3の続きを読む

津山城(鶴山公園)の石垣についてその1

その1その2その3その4その5

mon.jpg

▲冠木門(公園になった為石段を作ったのですが、本当の姿は左右に防備のための石垣があったらしい)

「建武のころ(1334~1337)、すなわち足利尊氏が室町幕府を開いた頃、美作国の西北条部に鶴山という山があり、別名小篠山とも呼ばれていた。その南に留川(戸川)という清浄な川があった。付近には戸川町や林田町があって、毎月の一日と十五日には戸川の市と呼ばれる市がたち、美作国中の人々が群集を成して集まり、さまざまな商品の売買をした」(森家先代実録より)

ここでいう戸川町は吉井川の河原、あるいは川に面した安定し土地と考えられ、その町場を眼前にして、鶴山の中腹には福聚山妙法寺があり、その門前には門前町があったといわれています。
伝承では、妙法寺は津山城の「柳の檀」にあったとされています。この「柳の檀」というのは三の丸の段を指しており、鉄砲櫓の下の付近に大きな柳の木があったとされています。また、城内の煙硝蔵がった付近、現在の鶴山館が位置するあたりも妙法寺の院内であったと伝えられています。
そして、煙硝蔵の一段上の段には大きな桐の木があったことから「桐の檀」と称され、そこには鶴山八幡宮があったと伝えられています。また、戸川町には、後に城下の総鎮守となる徳守大明神が祭られていました。

慶長9年(1604)春、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い鶴山を城地と定めた森忠政は、まず「鶴山」の名称を「津山」改めたとといいます。そして、その年の秋には手斧始めとして徳守神社を造営し城下町の総鎮守としました。(津山城百聞録より抜粋)

津山城(鶴山公園)の石垣についてその1の続きを読む

阿波八幡神社

aba4.jpg
花祭りの起源と阿波八幡神社(2010.11.3)
阿波八幡神社は、JR因美線美作河井駅より北へ約4キロメートル、旧阿波村(現津山市阿波)字位登山(大ヶ山の東麓の端)鎮座する。主神は誉田別命(15代応神天皇)で、足仲彦命(14代仲哀天皇)・息長足媛命(神功皇后)を配祀した神社である。
口碑によると、慶雲2年(705)、現在の地より少し南に鴨神社が創祀されたと伝えられており、平城天皇の大同元年(806)8月15日筑紫の国(大分県)の宇佐八幡宮の分霊を勧請し、合祀して八幡宮と称し現在の地位登山に移遷したものである。(先年、阿波村文化財保護委員が宇佐八幡宮に行って分霊勧請の記録を確認している)
八幡宮は武神としてのソ崇敬も顕著になり、尼子晴久の中国経略に際しここ美作にも侵入し、さらに播磨の国に出兵する際戦捷を祈願して阿波八幡宮の社殿を焼き払い、その後、戦捷奉實のための家臣村上左京進時泰に命じて社殿を再建した。
弘治4年(1558)年6月のことである。(社蔵の棟礼による)
当時の社殿は、宮4間4面、高さ3間1尺5寸(神主兵部より森美作守への上申書による)とあり、結構壮大な社殿であった。
現在の社殿は寛延2年(1749)村内氏子中により再建されたものである。
高山城(矢筈山)主 草苅景継は良(鬼門)の鎮護として崇敬し社領を寄進し、津山城主森忠政も城の民の鎮護として崇敬したという記録も伝えられている。(2010年 阿波神社の花祭りの様子
阿波八幡神社の続きを読む

出雲街道 坪井宿

9.jpg

坪井宿は、津山から三里半(約14キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長8年(1603)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄10年(1697)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約3.6メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯もかつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。(2010年5月30日)
久米町教育委員会

出雲街道 坪井宿の続きを読む