金屋神社(金屋)
由緒
百済王敬福の末裔、百済源次家久が観応2年(1351)3月官命によって、長岡郷に移住し鋳工を始めた。世人はこれを釜屋と呼び、業が大いに盛んになり、人家が集合して一邑をなしたという。当時の釜屋が現在の金屋である。家久は猿田彦神を守護神として祀り金屋権現と称した。明治4年金屋神社と改称し、明治6年村社に列した。昭和24年摂社八幡神社を合祀して相殿に祀っている。(文:『岡山県神社誌』より抜粋)(2020年6月27日撮影)
由緒
百済王敬福の末裔、百済源次家久が観応2年(1351)3月官命によって、長岡郷に移住し鋳工を始めた。世人はこれを釜屋と呼び、業が大いに盛んになり、人家が集合して一邑をなしたという。当時の釜屋が現在の金屋である。家久は猿田彦神を守護神として祀り金屋権現と称した。明治4年金屋神社と改称し、明治6年村社に列した。昭和24年摂社八幡神社を合祀して相殿に祀っている。(文:『岡山県神社誌』より抜粋)(2020年6月27日撮影)
当山は養老三年(719)の開基、本尊の大日如来像は行基菩薩の作と伝えられます。眉間の白毫より恵日の光明が虚空に遍く満ちゆくのを見て、恵日山と号します。
天文二十二年(1553)十月二十六日、飛び火の災により消失。永禄二年(1559)三月二十一日、中興光阿上人により再建されました。
また慶長九年(1604)美作国主・森忠政公より、松平公、明治に至るまでの間、毎年寺領二十石を賜る祈願所でもありました。
現在も毎月二十八日をご縁日として、息災延命と福寿無量をご祈願致しております。
また子安大師の由緒ある尊像を安置し、子育ての祈願所としても親しまれております。
(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(2020年6月7日撮影)
明徳山上野寺は、天平年中に行基菩薩が一刀三礼により、本尊を勧請し、一宇を創建したと伝わるお寺です。昨年、高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場巡りに出かけたとき、来年は花が咲くころに再度伺うと約束していましたので訪問してきました。昨年より少し早かったのですが来てみるとキクモモ(菊桃)は満開で真っ赤に咲いていました。また、境内のシャクナゲがとても綺麗に咲いていました。
作東誌(文化十二年 西暦一八一五年)によれば、文殊堂は、小中原村成興寺持で松渓庵と称し、文殊菩薩木像を安置するとある。ここにはかつて獅子吼山法音寺(安政四年 西暦一八五七年初屋文書によれば法苑寺とも、文久四年 西暦一八六四年新調の振亀箱には法音寺と記されている)という京都の天龍寺の末寺の禅寺があったが、創建された時期などつまびらかではない。現在の堂宇は、明治時代に火災に遭遇し再建されたものである。往時は御開帳を、旧正月二十五日に大般若経の転読の奉修が行われていたが最近では毎年三月第一日曜日に甘酒供養を、夏七月二十五日には大念珠まわし供養が行われ、知恵の文殊と崇拝されている。堂裏の墓地の一角には、岡山県指定重要文化財(昭和三十四年三月指定)があり、室町初期から南北朝期の様式をとどめる、石造無縫塔と石造宝篋印塔の二基がある。石造無縫塔は京都の天龍寺の開祖の夢窓国師のもの、石造宝篋印塔は松渓庵開山の宝山大和尚のものであると、宝暦十二年六月(西暦一七六二年)に本山天龍寺から来山し古記録と照合認定したという自然石の碑が塔前に建っている。松渓庵をつつむ自然のたたずまいの中に、時の流れの今昔をしのんでいただきたいものである。
塔中部落・加茂町観光協会
平成三年三月吉日
景清山 往生院 寶性寺
縁起によると、各地で戦功のあった藤原景清が将軍足利利義詮から恩賞として当山の地を賜り、館を構え母と暮らしていました。やがて、武勇にすぐれ衆望厚い景清は、出世を妬んだものに謀殺され、悲歎にくれた母も後を負うように亡くなってしまいました。
これを哀れんだ叔父の景明は景清母子の亡がらをねんごろに山内に葬り、弔いのため仏門に入ることを決心し、剃髪しました。そして、館を精舎としてご本尊を求めていた景明は、二宮村円通寺の地蔵尊を玉甫上人に乞い、当山のご本尊として安置しました。
この地蔵尊は、弘法大師が諸国を行脚の折、疫病が流行しているこの地で、人々の苦難する姿を目の当たりにされ、平癒祈願をするために刻まれた地蔵菩薩とされています。
この時貞治六年(1367)、玉甫上人を一山の開基とし、景清山寶性寺往生院と名付けられたと記されています。
以来、藤原景清一族の位牌とお墓を供養するするお寺として、現在に至っています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)
2019年度美作歴史ネット地域研修会のお誘いで真庭市社の「式内八社」について学んできました。
式内社:延長5年(927)に完成した『延喜式』第9・10巻「神名帳上下」に記載された神社。美作11座(10社)、備前26座(21社)、備中18座(18社)
美作の式内11座(一宮中山神社、二宮高野神社、三宮天石門別神社、社八社)
―中世の遺産・文化が色濃く残る社へ―
山々に囲まれ、清らかな水が湧く、自然豊かな社地域は、まさに日本の原風景。そんな社地域には、神社や御堂、石造物、城跡などの歴史遺産が数多く点在しています。
平安時代、醍醐天皇の命で編纂された『延喜式』に記載された重要な神社は、「式内社」と呼ばれていました。『延喜式』に記載された美作国11の式内社のうち、社地域にはじつに8つが集中しており、古代から神聖な場所とされてきました。中世以降にも多くの記録に記載され、古い形をとどめる祭りや行事も残っています。
「式内八社」とは佐波良・形部神社(県社)、二宮(長田、兎上、壱粟・大笹、久刀神社)、横見神社の8つの神社の通称です。(文:式内八社の里めぐりパンフレットより)2019年10月9日撮影
第十二番 金龍山普陀洛院 見正寺
当山開山の源は弘仁十五年(824)、諸国を行脚し、御修行中の弘法大師よりお告げを受けた、海圓上人の開創と伝えられています。
寺号はお大師様直々の命名によるもので、向かい側の神山愛宕山から眺める威容は「正に金の龍を見る如し」という意味を以て、金龍山見正寺と授けられ、本尊は正観世音菩薩です。
寛永年間においては、国主・森忠正公の一周忌法要を奉修し、その深夜諸堂を焼失しましたが、寺社奉行より再建料年貢米を下腸され、僅か二年を経ずして、再建落慶法会を修行できるほどの信仰と隆盛を極めました。
その後幾度か焼失しましたが、再建される度に諸堂の全てを西向きに統一されていたことから、如何なる時も頑なに真っ向勝負を挑む人を「見正寺向き」と言う諺を生んだと伝えられています。
爾来、時代は移り人は替るもご本尊様と社会へ奉仕を捧げながら、一山檀信徒各家の御先祖様、十方檀越諸聖霊に香華燈明の歴史を今に伝えています。
現在の本堂、大師堂、庫裡等は、前の建物の老朽化のため、平成四年檀信徒の熱き信仰と総意により再建を発願し、六年に及ぶ歳月を経て、平成十年に見事に完成したものです。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)
第十五番 高貴山奥之院 宗傳寺
宗傳寺は開創盛時、七間四面の本堂をはじめ七堂伽藍が整い、支院は七十二を数えた作州の名刹であります。弘仁六年(815)弘法大師御年四十二才の行脚の折、美作和気郷に仏法弘通の霊地があるのを見定められ、国家鎮護の祈願所として一宇を建立、行基菩薩の御作開眼仏なる六観世音像の安置された霊験あらたかなる聖地であります。
当山鎮守「高龍権現」は弘法大師入唐の時、育王山清瀧寺鎮守高龍権現に誓願、帰朝の後当山に勧請されたものと作陽誌にあります。元弘二年(1332)後醍醐天皇隠岐にご遷幸の途次、当山にお立ち寄りになられたと伝えられており、南麓には「古御帝」の遺跡があります。
文安元年(1444)尼子の兵火に罹り堂塔悉く焼失し、唯塔頭「自性院」(現華蔵寺)のみ南麓に下りて草庵を結び、難を免れた聖観世音菩薩を本尊とし、「高貴山華蔵寺」と号して法灯連綿と継承しております。
第三十三番 大寺山 勇山寺(いざやまじ)
当山は、神亀三年(726)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が六尺五寸の薬師如来を彫刻し、七堂伽藍を創建して国府大寺と号しました。実に1200有余年前にして、当国唯一の古刹でした。
その後弘仁六年(815)十一月、弘法大師が来錫し、厄難除けのため、不動明王・矜伽藍童子・制多伽童子の三尊を一木より彫刻し安置されました。彼の成田山の姉妹作として、日本三体の一つです。
不動尊は内に応病与薬の徳を秘し、外に悪魔降伏の相を現わし、現当二世に社会浄化の利益を施します。その彫刻は大師の御手よりなされたので、本尊の誓願深く籠らせました。故に、古今の名将や遠近の士女等、之を仰信して加護をうけられた人たちが多くいました。
彼の征夷大将軍は・源頼朝は文治五年(1189)に寺領百石を寄付し、山名忠政は赤松討伐のとき戦勝を祈り、また、天正十年(1582)領主牧家信は二十石を寄付して、堂宇維持のために充てられてました。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)
第十六番 高貴山自性院 華蔵寺
かわいらしいお地蔵さんに迎えられ、百観音のお砂踏みをしながら蓮の台に運ばれていきます。仁王さまの厳しい眼差しに身を引き締めながら山門(鶴山城より移築)をくぐると、十二支八体仏のご本尊さまと連山の眩しい緑をバックに、燃えんばかりと咲き誇る霧島つつじの大木にまず目を奪われます。
華蔵寺は、弘仁六年(815)弘法大師の開かれた高貴山宗傳寺が前身となります。宗傳寺は文安元年(1444)尼子の兵火に罹り堂塔悉く焼失しましたが、唯 塔頭「自性院」のみ南麓に下りて草庵を結び、難を免れた聖観世音菩薩を本尊とし、高貴山華蔵寺と号して宗傳寺の法灯を連綿と継承しております。
本堂には美作結縁灌頂にてご縁を結んでいただいた両界曼荼羅がお祀りされております。
本堂をあとに振り返ると泉水には悠々と泳ぐ大きな錦鯉たち...奥には本格的なお茶室が静かにたたずんでいます。
お大師さまのお招きに歩みを裏山へ進めると、四国八十八ヶ所お砂踏み霊場が続いており、山頂には阿弥陀さま(第十五番宗傳寺)がお待ちになっておられます。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)