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取材記事内を検索ワード「霊場」で検索した結果,249件の記事が見つかりました。

二つ柳のいわれ(南方中)

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 大字南方中長谷の出雲街道から寺岡に渡る橋のたもとに地神石の傍らに二本の柳の木があった。
昔、出雲の国の人で観音様に深い信仰を持った男が、諸国の霊窟(神仏を祀った神聖ないわや)をめぐるためにこの地を通過した時、この地で柳の枝を折って箸にして弁当を食べた。この男はその頃脚気であろうか脚疾をわずらっていた。食事を終わった男は箸をこの地に植えて。「これからの長旅を控えてこの脚の病に苦しんでいるが、どうか観音様のご利益によって、目的の霊場の場巡りを終えこの地に帰ったところ、かの箸は枝葉よく茂り巨木となっていたので「二つ柳」と名付けた。
 また、この街道は伊勢参宮の道で、昔伊勢参宮の姉と弟の二人が柳の箸を作って食事をした後でその箸を地に挿し、「残るとや、かげも形もみえねども」と姉がくちずさめば、弟がすぐにそれを受けて、「いつの世にまでものこれ木の箸」と歌をよんだそうで、その二本の箸が二本の柳になった」のだ、ともいわれている。『久米町史』より

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2020さら山地区の秋の風景

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 2020年11月19日さら山地区の秋の風景です。
嘗て後醍醐天皇が通られたという伝説のあるこの道は、只今道路が拡張されています。
 毎年、秋になると地区住民のみなさんが集って賑やかに「さら山時代祭り」が執り行われ、多くの人々が参加して楽しみます。今年はコロナ禍で「さら山時代祭」が中止になりとても残念でした。今までの取材した記事でお楽しみください。
2009年、2010年、2011年、2012年、2013年、2014年、2015年、2016年、2016年、2017年、2018年、2019年、

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金屋神社(金屋)

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由緒
 百済王敬福の末裔、百済源次家久が観応2年(1351)3月官命によって、長岡郷に移住し鋳工を始めた。世人はこれを釜屋と呼び、業が大いに盛んになり、人家が集合して一邑をなしたという。当時の釜屋が現在の金屋である。家久は猿田彦神を守護神として祀り金屋権現と称した。明治4年金屋神社と改称し、明治6年村社に列した。昭和24年摂社八幡神社を合祀して相殿に祀っている。(文:『岡山県神社誌』より抜粋)(2020年6月27日撮影)

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恵日山 興隆寺(鏡野町)

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 当山は養老三年(719)の開基、本尊の大日如来像は行基菩薩の作と伝えられます。眉間の白毫より恵日の光明が虚空に遍く満ちゆくのを見て、恵日山と号します。
 天文二十二年(1553)十月二十六日、飛び火の災により消失。永禄二年(1559)三月二十一日、中興光阿上人により再建されました。
 また慶長九年(1604)美作国主・森忠政公より、松平公、明治に至るまでの間、毎年寺領二十石を賜る祈願所でもありました。
 現在も毎月二十八日をご縁日として、息災延命と福寿無量をご祈願致しております。
 また子安大師の由緒ある尊像を安置し、子育ての祈願所としても親しまれております。
(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(2020年6月7日撮影)

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明徳山 上野寺のシャクナゲ・キクモモの花(鏡野)

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 明徳山上野寺は、天平年中に行基菩薩が一刀三礼により、本尊を勧請し、一宇を創建したと伝わるお寺です。昨年、高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場巡りに出かけたとき、来年は花が咲くころに再度伺うと約束していましたので訪問してきました。昨年より少し早かったのですが来てみるとキクモモ(菊桃)は満開で真っ赤に咲いていました。また、境内のシャクナゲがとても綺麗に咲いていました。

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文殊堂と県指定重要文化財(加茂町塔中)

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  作東誌(文化十二年 西暦一八一五年)によれば、文殊堂は、小中原村成興寺持で松渓庵と称し、文殊菩薩木像を安置するとある。ここにはかつて獅子吼山法音寺(安政四年 西暦一八五七年初屋文書によれば法苑寺とも、文久四年 西暦一八六四年新調の振亀箱には法音寺と記されている)という京都の天龍寺の末寺の禅寺があったが、創建された時期などつまびらかではない。現在の堂宇は、明治時代に火災に遭遇し再建されたものである。往時は御開帳を、旧正月二十五日に大般若経の転読の奉修が行われていたが最近では毎年三月第一日曜日に甘酒供養を、夏七月二十五日には大念珠まわし供養が行われ、知恵の文殊と崇拝されている。堂裏の墓地の一角には、岡山県指定重要文化財(昭和三十四年三月指定)があり、室町初期から南北朝期の様式をとどめる、石造無縫塔と石造宝篋印塔の二基がある。石造無縫塔は京都の天龍寺の開祖の夢窓国師のもの、石造宝篋印塔は松渓庵開山の宝山大和尚のものであると、宝暦十二年六月(西暦一七六二年)に本山天龍寺から来山し古記録と照合認定したという自然石の碑が塔前に建っている。松渓庵をつつむ自然のたたずまいの中に、時の流れの今昔をしのんでいただきたいものである。
塔中部落・加茂町観光協会
平成三年三月吉日

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景清山 往生院 寶性寺(鏡野町)

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景清山 往生院 寶性寺
 縁起によると、各地で戦功のあった藤原景清が将軍足利利義詮から恩賞として当山の地を賜り、館を構え母と暮らしていました。やがて、武勇にすぐれ衆望厚い景清は、出世を妬んだものに謀殺され、悲歎にくれた母も後を負うように亡くなってしまいました。
 これを哀れんだ叔父の景明は景清母子の亡がらをねんごろに山内に葬り、弔いのため仏門に入ることを決心し、剃髪しました。そして、館を精舎としてご本尊を求めていた景明は、二宮村円通寺の地蔵尊を玉甫上人に乞い、当山のご本尊として安置しました。
 この地蔵尊は、弘法大師が諸国を行脚の折、疫病が流行しているこの地で、人々の苦難する姿を目の当たりにされ、平癒祈願をするために刻まれた地蔵菩薩とされています。
 この時貞治六年(1367)、玉甫上人を一山の開基とし、景清山寶性寺往生院と名付けられたと記されています。
 以来、藤原景清一族の位牌とお墓を供養するするお寺として、現在に至っています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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美作歴史ネットで訪ねた中世式内八社の秋祭り

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 2019年度美作歴史ネット地域研修会のお誘いで真庭市社の「式内八社」について学んできました。
式内社:延長5年(927)に完成した『延喜式』第9・10巻「神名帳上下」に記載された神社。美作11座(10社)、備前26座(21社)、備中18座(18社)
美作の式内11座(一宮中山神社、二宮高野神社、三宮天石門別神社、社八社)
―中世の遺産・文化が色濃く残る社へ―
 山々に囲まれ、清らかな水が湧く、自然豊かな社地域は、まさに日本の原風景。そんな社地域には、神社や御堂、石造物、城跡などの歴史遺産が数多く点在しています。
 平安時代、醍醐天皇の命で編纂された『延喜式』に記載された重要な神社は、「式内社」と呼ばれていました。『延喜式』に記載された美作国11の式内社のうち、社地域にはじつに8つが集中しており、古代から神聖な場所とされてきました。中世以降にも多くの記録に記載され、古い形をとどめる祭りや行事も残っています。
「式内八社」とは佐波良・形部神社(県社)、二宮(長田、兎上、壱粟・大笹、久刀神社)、横見神社の8つの神社の通称です。(文:式内八社の里めぐりパンフレットより)2019年10月9日撮影

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金龍山普陀洛院 見正寺(勝央町)

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第十二番 金龍山普陀洛院 見正寺
 当山開山の源は弘仁十五年(824)、諸国を行脚し、御修行中の弘法大師よりお告げを受けた、海圓上人の開創と伝えられています。
 寺号はお大師様直々の命名によるもので、向かい側の神山愛宕山から眺める威容は「正に金の龍を見る如し」という意味を以て、金龍山見正寺と授けられ、本尊は正観世音菩薩です。
 寛永年間においては、国主・森忠正公の一周忌法要を奉修し、その深夜諸堂を焼失しましたが、寺社奉行より再建料年貢米を下腸され、僅か二年を経ずして、再建落慶法会を修行できるほどの信仰と隆盛を極めました。
 その後幾度か焼失しましたが、再建される度に諸堂の全てを西向きに統一されていたことから、如何なる時も頑なに真っ向勝負を挑む人を「見正寺向き」と言う諺を生んだと伝えられています。
 爾来、時代は移り人は替るもご本尊様と社会へ奉仕を捧げながら、一山檀信徒各家の御先祖様、十方檀越諸聖霊に香華燈明の歴史を今に伝えています。
 現在の本堂、大師堂、庫裡等は、前の建物の老朽化のため、平成四年檀信徒の熱き信仰と総意により再建を発願し、六年に及ぶ歳月を経て、平成十年に見事に完成したものです。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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高貴山 奥之院 宗傳寺(美咲町)

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第十五番 高貴山奥之院 宗傳寺
 宗傳寺は開創盛時、七間四面の本堂をはじめ七堂伽藍が整い、支院は七十二を数えた作州の名刹であります。弘仁六年(815)弘法大師御年四十二才の行脚の折、美作和気郷に仏法弘通の霊地があるのを見定められ、国家鎮護の祈願所として一宇を建立、行基菩薩の御作開眼仏なる六観世音像の安置された霊験あらたかなる聖地であります。
 当山鎮守「高龍権現」は弘法大師入唐の時、育王山清瀧寺鎮守高龍権現に誓願、帰朝の後当山に勧請されたものと作陽誌にあります。元弘二年(1332)後醍醐天皇隠岐にご遷幸の途次、当山にお立ち寄りになられたと伝えられており、南麓には「古御帝」の遺跡があります。
 文安元年(1444)尼子の兵火に罹り堂塔悉く焼失し、唯塔頭「自性院」(現華蔵寺)のみ南麓に下りて草庵を結び、難を免れた聖観世音菩薩を本尊とし、「高貴山華蔵寺」と号して法灯連綿と継承しております。

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