取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「橋」で検索した結果,358件の記事が見つかりました。

道祖神(原・新野山形)

hara-dousojin3.jpg

 道祖神はいろいろな信仰を含んでいる。旅の神・道の神など考える人も多い。また村の入り口や峠などに祀られている所もあり、境を守る神、悪魔を追い払う神などともいえる。
 道祖神は普通サエノカミ・サイノカミなどと呼ばれている。その信仰はほとんど全国にわたっている。道祖神の像塔が見られるようになるのは概ね寛文以後のことのようであり、それ以前はおそらく自然石を神体としていたと思われる。
 山形の道祖神は磧石または花崗岩を丸くした自然石に「道祖神」と浅刻されており、色・形状は男性の象徴を思わせ、道祖本来の原形を偲ばせて微笑ましい。

道祖神(原・新野山形)の続きを読む

津山城の一番古い石垣

鶴山3-5-14.jpg

 2019年3月5日の津山城(鶴山公園)の石垣です。上記の写真の場所は本丸の東面の石垣です。
本丸にあるこちらの石垣は一番古い組み方です。この階段は武者走りの石段(全国でもまれ)で、丹後山からの攻撃を受けないように、わざわざ築かれた石垣ですが、現在は傷みが激しいです。津山城は、森忠政が慶長9年(1604)に築城にかかり、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月を要しました。

津山城の一番古い石垣の続きを読む

石敢當(西中・原)

石敢當2.jpg

 沖縄や南西諸島及び九州南部で道路の突き当りや、門・橋などに「石敢當」の三文字を刻んで建ててある石碑で、中国伝来の民俗で悪魔除けの一種である。
「敢當」とは向かうところ敵が無いの意で、災いを除くために橋・門または路上などに石敢當の三文字を刻んで建てた石碑。
 中国伝来の民俗で悪魔除けの一種で、我が国に伝わり、九州地方ではよく見ることができ勝北中学校とに新野小学校にあり、災い除けの意で建てたものであろう。

石敢當(西中・原)の続きを読む

鷹山の削平跡(楢)

narayama66.jpg

 鷹山に中世の城砦と思われる跡がある。
 加茂川沿いの近長道に接する鷹山の頂上は南から西、北と非常に眺望がよく、以前から村人のお花見場として親しまれていた。この山頂に削平された南北二段の平地がある。30㎝ほどの段差で上段南側は一辺約12mの方形、下段北側はやや広い不定形の平地である。尾根続きの40mほど東にも現在は墓地になっているが平坦地がある。ここから東に5、60mのところには尾根を馬の背のように削り出した通路が残っていて陸橋の跡である。なお東に続く尾根には土塁の跡を疑わせるところもあり、一帯が城砦の跡と思われる。

鷹山の削平跡(楢)の続きを読む

宮脇町

miyawaki6.jpg

 津山総鎮守徳守神社のある宮脇町には、津山城下の西の入口として往来取締りを行う西大番所が今の翁橋東詰にありました。
 築城当初は、南側は神社の境内でしたが、現在の街並みになったのは1700年頃と思われます。明治まで徳守神社門前の商人町として、また城下の西の護りの要としての役割を果たしてきました。
 なお、当町内のだんじり「廉珠台」は、津山最古の物で今も徳守神社秋祭りには曳き出されています。

宮脇町の続きを読む

田中(小田中)

tanaka01.jpg

 小田中の由来は田中郷からです。『和名抄』には、田中郷は苫田郡七郷の一つと書かれています。当時の田中郷は、西は現在の筋違橋から東の宮川まで、北は上河原から南の吉井川まで広い地域であり、城西通り一帯は河川敷であったと書かれています。田中の地名も田中郷に由来しています。
 町内の中心には白加美守護神、田中北部に農業の守護神の2社があります。

田中(小田中)の続きを読む

西今町

nishiimamachi3.jpg

 城下町建設当初は、町場ではなかったのですが、寛文年間(1661~1673)城下町に編入されました。古名を「茅町」といいましたが、編入時に改名したと伝えられています。東側を流れる川沿いの通りを藺田町(湯田まちともいう)と呼び、岡山往来の出発点として繁盛しました。西今町には、翁橋があります。これは、津山城下の西部を北から南へ流れる藺田川に架かる橋で、旧出雲街道筋にあたり東側に西の大番所がありました。翁橋は、国の登録有形文化財で「この建造物は貴重な国民的財産です」と記されています。その西側には、作州民芸館があります。この建物は、大正9年(1920)、旧土居銀行本店として建設されました。外観は正円アーチと直線で構成されるルネッサンス様式を基本にした建築物で、国の「登録有形文化財」になっています。

西今町の続きを読む

安田橋

安田橋1.jpg

 明治八年、東京に師範学校ができ、箕作秋坪が校長になったとき、秋坪は漢学の教授として津山から親せきに当たる大村桐陽(斐夫)をよんだ。この人にまつわることだが、安田伊太郎という津山の一人の青年が東京で雄飛しようと夢を抱いて、明治九年に上京した。しかし東京の風も甘くはなかった。アチコチ歩いて職を求めたが、思うようなものは見つからなかった。持って来たカネは使いはたす。そこで同郷の人、大村先生の門をたたいて、津山へ帰る路金の借用を申し入れたが、風体のよくない二十三歳の青年を見て信用しなかったようだ。一面識もないのだから無理もない。一度、二度、そして三度、大村先生の門をたたいて、やっと三円を借りることができた。こころざし破れて帰郷の途中、一面識もない人に低頭平身して、同国のよしみを訴え、わずかなカネを借りるとは、何とつまらないことか、これではいけない。大いに発奮して働き抜こうと決心した。

安田橋の続きを読む

六躰地蔵『山西の民話』

jizou.jpg

 山西の村のはずれに六躰という所がある。何時の頃からそんな名前がついたのかだれも知らない。いたち道の細い道がいく重にもくねっている。その山道の背の窪みに小さな石の地蔵様が七つ並んで立っていらっしゃる。あまり信仰する人もないのか、ローソクも線香も見かけることは殆どない。
 今から百年程前のことである。山西に長という信仰心深いおばあさんと生という娘がいました。おばあさんは氏神様に日参二十一日は新善光寺、二十五日は天神様にお参りして帰りには飴玉やけし板を買って六躰のお地蔵様にお供えするのが楽しみであった。

六躰地蔵『山西の民話』の続きを読む

津山藩江戸藩邸

edo-yashiki.jpg

津山藩江戸藩邸
 江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、江戸と領国の二重生活を送ることになっていました。そのため、大名は江戸に屋敷を拝領し、多数の藩士が単身赴任の苦しさと、大消費都市江戸の享楽の同居する生活をしていました。
 津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄十一年(1698)九月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側に七千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用しました。この鍛冶橋藩邸は後に敷地が加えられ、最終的には一万二千坪ほどになっています。
 江戸の津山藩邸は鍛冶橋藩邸だけではなく、浜町の中屋敷、高田・深川の下屋敷などがあり、それぞれかなりの敷地を有していました。

津山藩江戸藩邸の続きを読む