尾所のさくらです。
2013年4月17日の尾所のさくら満開の様子
由来 西暦1450年 年号宝徳2年の頃、山伏が倉見越えの途中ここで休み、持っていた杖を残したまま出立ちした その杖が根づいて今の桜の木になったものと伝えられているこの桜の木は、当村大田進氏より阿波村へ寄贈されたものである。と石碑に書いてありました。
2013年4月17日の尾所のさくら満開の様子
由来 西暦1450年 年号宝徳2年の頃、山伏が倉見越えの途中ここで休み、持っていた杖を残したまま出立ちした その杖が根づいて今の桜の木になったものと伝えられているこの桜の木は、当村大田進氏より阿波村へ寄贈されたものである。と石碑に書いてありました。
本社は、新野西中の産土神であり、社殿によれば円融天皇の貞元二年(977)西中の天満山に社殿を創立して天穂日命を祀り、天満宮と唱えました。元禄二年には津山森藩の崇敬により本殿が再建され、明治六年には村社に列せられ、西奈加神社に改め、さらに明治十年に天穂日神社に改称しました「(美作神社資料」)。新野まつりには当社の神輿一体が新野山形の稲塚野に神幸せられる。
各社にはそれぞれ神楽殿があり、この舞台を利用しながら発展したのが横仙歌舞伎である。
まつりの終わったころから芝居の稽古がはじまり、氏子たちは地下芝居の役者となって芸をきそう。神域は各村々の最高の娯楽場でもあった。
参考文献:(勝北町誌・歴史めぐり資料)(神社と寺院)2012年10月26日取材
菩提寺略縁起
当山は、お念仏「南無阿弥陀仏」の元祖で、浄土宗を開宗されました「圓光大師法然上人」が、初めて仏教を学ばれた聖域にして、浄土宗史蹟であります。
その草創は、持統天皇(41代)朱鳥6年(692)役の小角神変大菩薩が名木の神山(那岐山)に霊地を求め、この地に修験道場を開き、後に天平年中、聖武天皇(45代)の勅願によって行基菩薩が自ら十一面観音像を刻んで中堂に安置し、「元明天皇(43代)の菩提寺」として再興開基し、七堂伽藍三十六僧坊を建てめぐらし、四宗兼学の学問道場として各地から学僧が蝟集し、その興隆数百年に及んだ。
その間"法相""天台""浄土""真言"と各宗変遷をたどり多くの名僧を輩出したが、殊に法然上人(幼名勢至丸)9才(1141)から13才まで、父漆間時国公の遺言によって、母方の叔父、勧学得業上人のもとで学問を始められた史実は、勅修「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)に伝えられる処です。
往古の伽藍の様相を、僅かに残る中古の記録によると、'本堂九間四面""観音堂五間四面""鎮守堂四間四面""不動堂二間六面""鐘堂二間四面""通堂九間"等々記されており、広大な規模を彷佛とさせられるものがあります。
数百年の繁栄も、この地が険要であったが為、地方豪族の拠点として菩提寺城等の城砦を築き、戦国乱世に頻りに災禍を受けてついに天文2年、尼子義久の焼打によって、悉く灰燼となって以来衰微の一途を辿り、江戸末期僅かに残る草庵も焼失し、無檀、無禄につき復興のめどなしとして、一旦は廃寺となったが、法然上人遺蹟地の故、明治十年寺名再興浄土宗復宗の官許を得て作因両州近郷近在の檀越、信徒共々信心を凝して本堂再興(明治十三年)、以来現在に及んでいる。
1、本尊:十一面観世音菩薩 座像、嵯峨大覚寺から文久元年招来。
2、阿弥陀如来:芝増上寺から蔓延元年招来
3、勢至丸像:勢至丸様(法然上人幼名)の霊像で、阿弥陀如来と共に奉納された唯御一体の圓光大師少年姿、冷泉為恭の作。
4、守護神:摩利支天王を勤請し、境内の守護神として巌上に御鎮座
5、観覚塚:勢至丸様初学の師、観覚得業上人の御墓、熊谷蓮生(直実)の建立と言われる、石塔は近年の建替え。
6、大公孫樹:勢至丸様9才入山の際携えた、いちょうの杖を「我、未来に弘めんとする法門盛んならば、必ず繁生せん」と本尊に誓って挿し木したと伝えられている。
果たして念仏の興隆と共に繁茂し、目通り13m余高さ40m余の巨樹となり、昭和3年国の天然記念物に指定された。
資料提供:高貴山 菩提寺(2012年11月14日取材)
天正の頃(1580年代)のことである。矢筈城主達が退城したとき、その若君が、この地で非業な死を遂げて成仏せず、村人が附近を通ると、哀れな幼児の泣き声が聞こえていたので、祠を建て、その霊を慰めた。
何時の頃からか、幼児の夜泣きを治めるのに、霊験顕たかと言われ、若宮様として、今も信仰されている。平成9年1月之再建 加茂町観光協会 矢筈城址保存会(案内板より)
若宮神社は第二代景継の若君を祀っています。若君が城を落ちる際の伝説と共に伝えられ、幼児の夜泣きをしずめる神として知られています。
(案内板より)2012年9月20日取材
青柳神社
御祭神 天照大神荒魂 金山彦命 天日筒男命
例大祭 十月十日
中祭 春祭四月 夏祭七月 冬至祭十二月
由緒・沿革
本神社の創建由緒は不詳であるが、古人伝え云ふ。
天平勝宝年中(749~56年)直金を掘収したが失敗し、片金山の柳神社に祈願したところ、金山彦命、天日筒男命を奉賽せよと告げられ、柳神社を相殿として宮殿を造り、社号を中山神社としたのが其の起源である云われている。
又、美作六十六社の一社であり、寛文8年(1668) に再建したとも云われている。「作陽誌」にも中山神社とあり外に国司大明神が祭られていたと云ふ。
其の後、明治6年(1874)青柳神社と改称し、同9年、金山彦命、天照大神荒魂、天日筒男命を合祀して村社に列せられた。明治42年に大字青柳内の水分神社、経津主神社、伊勢神社、滝神社を合祀した。大正2年、時の流れに依り、上加茂神社(現千盤神社)に合祀された。
それ以前は現在地より上の段に双殿として奉賽されていた。現在の本殿は其の一つの宮殿であった。それ以来、遥拝所となり昭和24年再び旧宮山に遷座奉賽される。
平成6年10月、本殿、拝殿等老朽化が激しく、敷地を新しく造成し、本殿の修復、上屋・拝殿を氏子の浄財寄進等により、造営する。
平成9年6月吉日 氏子中 (2012年9月20日取材)(文:案内板より)
福井八幡宮の参道入り口の道に面して、高さ1mに近い修験道信仰を物語る古びた石碑がある。修験道とは、山岳信仰を通して山の霊気にふれ、山の行場で心身を鍛え、呪術力を体得して、病気を平癒し禍(わざわい)を除くより現世的御利益を追及する信仰である。
この道を修める修験者は、いわゆる山伏(やまぶし)と言われ、白装束で金剛杖をつき法螺貝(ほらがい)を吹いて、山野をかけめぐった。彼らは概して情報に明るく薬草などにも博学であったため、民衆に受け入れられ、村民のリーダー的存在として活躍した。
石碑は、判読が難しくなっているが、次のように刻まれている。
明治六年癸酉 福井村
(梵字) 大峰役行者大菩薩
九月九日 講 中
これは、大和大峰山で修行し悟りを開いた、役行者(えんのぎょうじゃ)をたたえたものである。広く修験者に崇拝されている役行者とは、修験道の開祖の人物である。
2012年6月28日取材(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)
福井から大崎方面にぬける県道べりに、土居の公会堂があるが、その公会堂の道を隔てた西側の一区画は、真宮神社の鳥居や、よく手入れされた花壇・樹木があり、小公園らしくなっている。その場所の北側一隅に、次のような文字の修験道に関わる輝かしい修行記念碑が見られる。
(梵字)大峰山三十三度供養
先達 安藤栄治郎
明治5年 壬申歳 世話人 安藤頽蔵
8月 吉祥日 同 安藤與平
この趣意は、修験道修行のため大和大峰山の登り続けた先達の安藤栄治郎が、ついに満願供養の33度の偉業を達成したことを讃え、安藤頽蔵と安藤與平が世話人となって、明治5年(1872年)8月の日柄の良い日にこの石碑を建立し、供養にしたと解せられる。
奈良県吉野から大峰山は、古来よりの修験道修行の聖地である。
7世紀末、修験道の開祖役行者(かいそえんのぎょうしゃ)はここを修行の地と定め、巨大な磐座のある金峰山(山上ヶ岳=1719m)で、苦行の末に金剛蔵王権現を感得したと伝えられている。以来、現在に至るまで、修験道修行の本場となっており、江戸時代のころから一般庶民も講を結んで登山するようになった。講の先導や世話役にこの先達が活躍した。
▲花屋・高畑の田んぼの中の地神様
河面の上原集落に上がる三叉路の所に、コンクリートで固められた台座の基に、むすび型の石碑で地神様が祀られている。
「地神」と大きく刻まれて、川石の裏面に「大正5年4月建 上原講組」と建立した年代を明記してある。(大正5年=1916年)
また、河面には今一つ、小字の花屋・高畑の田んぼの中で、かつて広山八幡宮の御神輿が立ち寄り神事が行われていたと言われ、いまでも幟が立てられる旧神事場に、ほぼ同じ大きさの地神様が祀られている。
「地神」と刻まれた丸い川石の裏面に、これまた、「大正4年9月 高畑花屋」と明記されており、これら二つの地神塔が、ほぼ同時期にできたことが分かる。
この地神様は、百姓の神様として広く各地で祀られている。
ルーツは、平安以後広まった地蔵信仰の一形態であり、「地蔵菩薩本願経」の内の「地神護法品11」に「堅牢地神の守護を受けて地蔵菩薩を供養すれば土地が豊かになり、家が永く安らかになるなどの御利益を受ける」と説かれていることなどに由来している。たびたび凶作飢饉にみまわれた江戸時代半ばころから流行しだし、明治~大正ころ急速に建立が流行したようである。河面の二つの地神塔ができた背景には、大正3年(1914年)の干害や、4年の暴風などによる凶作が考えられる。地神信仰は、構造改善を終えた現在においても建立されており、農村地域に根強い信仰が続いている。
地神様の祭りは、本来、春秋の彼岸の中日に最も近い戊の日に当たる社日に行われていた。この日は、地神講、社日祭と呼んで、田畑に入らない、土をいじらない日として農作業を休み、部落の当番が世話をして地神様の祭りを営む。地神塔には、注連縄を張り、酒や米をお供えをし、お祈りの後には、各戸から集まった皆で、簡単な飲食をする習わしであった。
農作業の形態が大きく変わった現在、上原地区の事例で言うならば、彼岸前後の休日の日、道直しや溝掃除の共同作業の後、地神様をお祭りしている。疲れなおしをかねて、その広場で簡単な会食をしている様子となっている。
なお、花屋の地神様のある旧神事場の二つの小祠は、部落・株などを守護し火伏の役を果す三宝荒神様と、地鎮の神様を八幡祭礼日に合わせてお祭りしている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年5月31日取材
田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。
田熊 参道石碑群(3) 神變(しんぺん)大菩薩(だいぼさつ)等修験道碑(とうしゅげんどうひ)
神事場南の石碑群の中で、目立って大きいのが、東側基壇上の2つの修験道碑である。この石碑は、本来もう少し東に位置していたのが、昭和の初め、家の建築に際して現在地に移されたそうで、文政6年(1823年)のものである。石碑には次のように刻まれている。
右
(梵字)神變大菩薩
文政癸未年 願主 福島譽次
村々 惣講中
左
(梵字) 大月如来
(※梵字は○印の中にある)
神變大菩薩というのは、修験道の開祖、役行者(役小角)の諡名である。
寛政11年(1799年)の役小角一千百年御遠忌にあたり、光格天皇から時の聖護院にこの諡号が与えられ、以後、この別名で祀られることが多くなった。(2012.1取材)