福井 輝かしい修行記念の修験道石碑

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 福井から大崎方面にぬける県道べりに、土居の公会堂があるが、その公会堂の道を隔てた西側の一区画は、真宮神社の鳥居や、よく手入れされた花壇・樹木があり、小公園らしくなっている。その場所の北側一隅に、次のような文字の修験道に関わる輝かしい修行記念碑が見られる。
(梵字)大峰山三十三度供養
    先達 安藤栄治郎
明治5年 壬申歳  世話人 安藤頽蔵
  8月 吉祥日    同   安藤與平
 この趣意は、修験道修行のため大和大峰山の登り続けた先達の安藤栄治郎が、ついに満願供養の33度の偉業を達成したことを讃え、安藤頽蔵と安藤與平が世話人となって、明治5年(1872年)8月の日柄の良い日にこの石碑を建立し、供養にしたと解せられる。
 奈良県吉野から大峰山は、古来よりの修験道修行の聖地である。
 7世紀末、修験道の開祖役行者(かいそえんのぎょうしゃ)はここを修行の地と定め、巨大な磐座のある金峰山(山上ヶ岳=1719m)で、苦行の末に金剛蔵王権現を感得したと伝えられている。以来、現在に至るまで、修験道修行の本場となっており、江戸時代のころから一般庶民も講を結んで登山するようになった。講の先導や世話役にこの先達が活躍した。

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▲修験道修行記念の供養塔             ▲修験道のある土居公会堂西周辺
 山岳信仰の修験道は、死後の世界の信仰より、山の霊場で体得した呪術の力によって、現世的に庶民を救済する宗教となり、民間信仰として、広く村々に普及していた。
 県下では、児島五流山伏(児島尊龍院)の修験集団は有名であり、名高い英田郡の後山(うしろやま)は、中世には児島の五流修験・大法院の霊場であった。近世末期からは、大峰信仰の流布によって、後山が「仮峰」としての性格をもって、一般民衆を登拝させる後山山上講が盛んになり、修験道信仰が流行したため、多くの熱心な信者が見られるようになった。
 先達には、何回峰入りして修行したかによって、位階が授けられていた。
後山の場合は、小先達(2回)・中先達(3回)・大先達(6回)とあった。大峰山の場合(本山派)は、未先達(入峰修行3回)・大先達(4回以上)・参仕修学者(10回)・直参(20回)・峰中出世(33回以上)まであり、官位第2位の大越家(だいおっけ=36回)は、俗人には許されていなかった。従って、33回の峰入り修行は、俗人として授かる最高の先達の位であった。
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 それにしても、この本場の霊場に幕末から明治の初めにかけて、作州の地から長旅をして三十三度も登ることは、いかに信仰のためとは言え並大抵のことでは ない。神秘の山に霊力の源泉を求める独特の修験という信仰だからこそできたことと思われる。なお、三十三という数字は、観音信仰から生まれた特異な数字 で、観音は救いを求める人々に三十三度も姿・形を変えて救済すると言われている。観音にあやかり、救いの法力の満願成就を意味してのことであろう。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年7月21日取材