福井 庶民に根づいた修験道信仰役行者の碑

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 福井八幡宮の参道入り口の道に面して、高さ1mに近い修験道信仰を物語る古びた石碑がある。修験道とは、山岳信仰を通して山の霊気にふれ、山の行場で心身を鍛え、呪術力を体得して、病気を平癒し禍(わざわい)を除くより現世的御利益を追及する信仰である。
 この道を修める修験者は、いわゆる山伏(やまぶし)と言われ、白装束で金剛杖をつき法螺貝(ほらがい)を吹いて、山野をかけめぐった。彼らは概して情報に明るく薬草などにも博学であったため、民衆に受け入れられ、村民のリーダー的存在として活躍した。
 石碑は、判読が難しくなっているが、次のように刻まれている。
     明治六年癸酉   福井村
(梵字) 大峰役行者大菩薩
     九月九日      講 中
 これは、大和大峰山で修行し悟りを開いた、役行者(えんのぎょうじゃ)をたたえたものである。広く修験者に崇拝されている役行者とは、修験道の開祖の人物である。
2012年6月28日取材(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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この修験者のあがめる役行者は、単に、修験の開祖のみではなく、室町時代以後のさまざまな伝説本で、前鬼・後鬼という鬼神を使い空をも飛ぶ超人的な呪術力を身につけた仙人として語られている。実際には、空海や最澄より百年以前の7世紀後半に実在した人物であり、大和葛木(かつらぎ)山中にて修行し、密教を学び、さらに道教思想を身につけ呪術力に秀れた僧であった。一時期、ねたまれ謀判の罪で伊豆に流されたりしたが、後に許された。
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やがて、大和大峰山で修行するうちに、修験の守護神として金剛蔵王権現(火炎なかの忿怒(ふんね)の形相の不動明王)を祈りだし、修験道の道を開いた。時を経て在家のままで修験道の道が開かれているため、民間信仰としても広がった。
 とにかくも、こうした修験の碑に、「講中」とあるのは、現世的御利益を追及した修験道が、広く民衆に受け入れられ普及していた証しと言えよう。なお、福井村では、寺子屋師匠に修験者がなっていた記録も伺える。(岡山県教育史上)
 さらに、今一つ、年代に注目したい。石碑の建立された明治6年(1873年)と言えば、明治維新の混乱した大変不安な世相にあった。


 この年、民衆は、大きな負担をかける維新の諸改革=徴兵令反対を始め、地租改正や学制発布・解放令等の諸改革に反対し、これまでの村落共同体が崩れる危機感から、大規模な反政府暴動を起こした。一般に血税一揆と言われている全国的にも有名な一揆の勃発である。結果として、死罪も含む2万6千700人余の作州人が処罰された。広野地区も河面の庄屋に打ちこわしをかけたあと、暴徒と化した一行は河面から福井を通って、新田・大崎方面に抜けていった記録があり、参加者を含め多数がまさにその渦中に巻き込まれている。


 こうした大変な世情不安を背景に、邪(じゃ)を砕(くだ)く荒神(あらがみ)と言われる修験の神を祈りだした役行者を祀ることで、さまざまな災難や社会不安から除かれることを念頭して、この石碑が安置されたのではないかと、推察されるのである。
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