昔なつかし津山の商店街(一番街)
アルネが出来る前の津山一番街(協同組合津山一番街は、昭和38年4月4日の設立です。)
津山一番街はJR津山駅から北へ400m程の市街中央部にあり、鶴山通り京町交差点から西へ長さ200m程続くアーケード商店街で、かつての出雲街道筋に沿っています。
平成6年に付け替えられたアーケード入口には「ソシオ」のロゴが記され、現在商店街は「ソシオ一番街」といわれています。(文:おかやま商店街ナビより)(写真提供:中山須美子さん)
アルネが出来る前の津山一番街(協同組合津山一番街は、昭和38年4月4日の設立です。)
津山一番街はJR津山駅から北へ400m程の市街中央部にあり、鶴山通り京町交差点から西へ長さ200m程続くアーケード商店街で、かつての出雲街道筋に沿っています。
平成6年に付け替えられたアーケード入口には「ソシオ」のロゴが記され、現在商店街は「ソシオ一番街」といわれています。(文:おかやま商店街ナビより)(写真提供:中山須美子さん)
第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」
2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。レポートその2は、嵐ヶ乢~新庄宿までです。秋の日、暑くもなし寒くもなしのハイキング日和で、ワイワイガヤガヤ賑やかに歩いてきました。後鳥羽上皇旧跡では、地元の方が甘酒を用意して待っていてくださり感激でした。また、しだれ栗の木にはビックリでした。
2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。今回が出雲街道歩きは最終回とのお話で50名の定員を大幅に超える78名の参加がありました。10:30分受付を済ませ、新庄村ふれあいセンターで美味しい昼食を取った後、12:00バスにて乢根(たわね)まで行き、四十曲峠を超えて来ました。レポートその1は四十曲峠~嵐ヶ乢まで。
合併記念碑(下高倉東有重)
高倉小学校北の道から一段上がった高倉村役場跡の大銀杏の下に、「合併記念碑」が威容を誇っている。高倉村が近隣9か村と津山市に合併した昭和29年(1954)7月から5年を経過した昭和34年(1959)7月に、難波保外16人が発起人となり、合併5周年を記念して建てたと記されている。
合併記念碑 碑文
和銅弐年備前六郡を割いて美作国を置く 当時より高倉川の流域及び大篠山東西の地域を含めて高倉郷或いは高倉の庄と呼び郡の中部を東西に走る街道に沿う地であった。後久しく封建制度の下に小村が独立して来たが明治22年上高倉下高倉東下高倉西の三村を併せて高倉村となし自治制を布く昭和29年周辺9ヶ村と共に津山市に合併して今日に至る。この間遠くは近平用水路の開鑿近くは土地改良事業など共に高倉の躍進を約束する輝かしい事蹟として特記すべきものがある。茲に合併五周年を記念し有志相謀り旧高倉村役場跡に碑を建て幾多先人の功を偲ぶ資料として更に後人の奮起を期待する次第である。
昭和34年7月1日 難波 保 撰
2016年9月10日アルネ・津山4階市立文化展示ホールで開催されている劇作家でイラストレーターの山田美那子さん(79)の初の個展みなこワールド「出雲街道むかし絵展」(主催:㈱ガット)の会場を尋ねて来ました。
山田さんは、津山市生まれで城東地区育ちの生粋の津山っ子で、津山大好きさんでもあります。
文化庁主催の芸術祭の台本を多数執筆されています。また、津山城築城400年記念ミュージカル「石の記憶」で津山市文化功労賞を受賞されるとともに、ベネッセ奨励賞、福武文化奨励賞(現代文化部門)、さらには、くすのき賞を受賞されるなど精力的に活動を続けておられます。
出雲街道に沿って大きなお宅があるのでお尋ねしてきました。当主の北平也さんにお尋ねしたら、この北家はおよそ900年前から続いておられるのだそうです。当所北家はここから2kmほど東にあったそうですが、火災に遭い200年前に現在地に移って来られ、その後、約80年前に大修理をなさったそうです。向かって右隣には造り酒屋で北家の分家の北酒蔵があったとのことです。(2016年8月11日撮影)
梶村家の歴史
梶村家はもとの屋号を米屋といい、元禄年間(1695年頃)には出雲街道の南側に居住し、その後現在の地に住んだようである。
宝暦年間(1760年頃)には山内屋と称しているが、商いは不明である。明和4年(1767)に「札元並」という町役に任命され、五人扶持、名字を許され茂渡藤右衛門と改名、その後数代にわたり「札元」を勤めている。
梶村姓を名乗るのは明治4年(1871)からである。明治中期には平五郎が県会議員として県政に貢献し、銀行業務に尽くすかたわら和歌を得意とし明治42年(1909)の歌会始に入選するなど、美作地方の歌壇の発展に尽くした。また、長男良次もガス会社・製紙会社などの経営に活躍した。
なお、平五郎などの和歌の活動の場となったのが、当家の後の果樹園に建っていた「千草舎」(ちぐさのや)と呼ばれていた庵である。そこで、このたびの修理で茶室にこの名を引き継いだ。
(文:梶村邸説明パネルより)(写真提供:江見写真館、※写真撮影の年代は全て賀陽宮様がお出でになった昭和6年のものだそうです。)※写真は「津山瓦版」のみ使用可です。
棚田暁山筆「伊能忠敬」㊤ー津山にやってきた伊能忠敬ー
明治11年、西北条郡津山町元魚町(現津山市元魚町)に生まれた歴史画家・棚田暁山(たなだ ぎょうざん)は本名を梅吉といった。元魚町にあったという生家の場所や何を営んでいたこということは不明。少年期より古画や有職故実への関心が高く、上京して模写修復の技能を学んだ。
この過程にあって当時歴史画の大家であった小堀鞍音の知遇を得て明治33年に入門。以後主に土佐派の大和絵の画風を学びつつ、鞍音の助手として古美術品の収集などにあたった。同門には安田靫彦らがいたが研鑚を重ねて各種の共進会などに出品、入選や褒章(ほうしょう)を受けた。
昭和14年には号を暁山から真楯に改めた。戦時中、津山に疎開していて作品を残したがそれらには、この真楯という号がかかれている。師ゆずりの綿密な歴史考証にもとづいて緻密で迫真に富んだ歴史画を書いているが、先般、笠岡の竹喬美術館で開かれた「岡山の近代日本画展」には代表作の一つ「伊能忠敬」が出品されていた。(文: 竹内佑宜)(画:岡山県立津山高等学校蔵)
2016年11月6日(日)午前10時~重要伝統的建造物群保存地区一帯で「第27回 出雲街道 津山城東むかし町」のイベントが行われました。当日は曇りで少し雨もぱらついていて心配しましたが、何とか雨も降らずに皆さん楽しんでおられました。出雲街道沿いの1.2kmが歩行者天国となり、時代行列や津山城東音頭をはじめ、物産市やホルモンうどん、出雲街道そば、箕作うどん、猪鍋などのグルメ、消防音楽隊パレード、自衛隊パレード、オリエンテーリングなど様々なイベントが催されました。(2015年の様子)