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備前国総社宮 岡山市指定文化財(史跡)

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備前国総社 岡山市指定文化財(史跡)
 古代律令制下、平安時代末ごろまでには、ほとんどの国に総社が設けられた。
総社とは、国司(国の長官)が逐一出向いて巡拝すべき各神社が、国内各所に分散して不便であるため、各祭神を国府の近接の一か所に合祀することで、参拝を略式化するために設けられたもので、国府直属の祭祀施設である。
 備前国の総社は、備前国府(推定地)の北西丘陵に位置し、国司所祭の古社128の祭神を集めたものと伝えられる。成立の時期は定かではないが、およそ平安時代と推定される。律令制崩壊後は、氏神としての地域の信仰を集め、中世の神仏習合期、岡山藩による寛文の神社整理(1666~1667)を経て、現在に至っている。
 現在の境内地付近には、惣社の内一、同二、馬場といった字名が残っており、かつては一町四方におよぶ広大な社地が広がっていたと考えられる。
 昭和四十年七月に岡山市指定史跡に指定された。平成28年3月 岡山市教育委員会(文:案内より)
(2018年1月1日撮影)

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DD16形ディーゼル機関車

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DD16形ディーゼル機関車
 軌道構造の弱い簡易線に投入する機関車は、軸重が12トン以内に制限されている。そのためDD13形やDE10形を入線させることができなかった。そこで、C56形など軽軸重蒸気機関車と置き換えるために開発されたのが、全長12mのDD16形である。DD51形初期形のエンジンDML61形を出力800PS/1,330rpmに抑え、最高速度を75km/hとした。25km/hで走行した場合、10‰で約400トン、25‰170トン、33‰では100トンの牽引が可能である。1972(昭和47)年から1974年の間に65両製造され、大糸線を皮切りに、四国を除く全国に配置された。そのうちの4両は1979(昭和54)年から1983年にかけて除雪用に改造され300番台となり、飯山線と大糸線で使用された。DD16-304は2015(平成27)年8月、金沢総合車両所から津山に来た。(2016年7月24日、11月1日撮影)

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DE50形ディーゼル機関車

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 1970年(昭和45年)に国鉄が日立製作所笠戸工場にて製造したディーゼル機関車です。 本形式は津山扇形機関車庫に保管される1両しか製造されていません。
 当時既に大量配備されていたDD51はディーゼル機関を2基搭載することによる 保守費用の増加の問題を抱えいた他、重量の問題で支線区での運用にも制限がありました。 また、支線区用として開発されたDE10は出力が小さく、速度面の問題がありました。 これらの問題を解決するため、 "DD51の代替・後継となり得る出力"と"DE10のように 支線等でも運用できる重量及び高い保守性"を両立した、 最強の純国産ディーゼル機関車の開発がスタートしました。そして誕生したのがこのDE50です。

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嵯峨山の夕日

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 2018年1月2日の美しい夕日です。
久米の佐良山については作陽誌に
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。

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2018 津山消防出初式

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2018年1月7日(曇り)午前10時から津山市内の消防ポンプ約100台と赤バイが勢ぞろいした中、津山消防出初式が吉井川河岸緑地公園(観覧は北岸)でありました。一斉放水が予定より遅れて行われました。今年は一般の見物客の方が増えていたように思われました。また、この日は午後から全国サッカー選手権大会で地元の作陽高校女子サッカーチームの決勝戦があり、見事準優勝に輝いたおめでたい日と重なりました。(2018年1月7日撮影)

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王子御塚社(後南朝第三代忠義天皇陵)

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王子御塚社の由来(後南朝第三代忠義天皇陵)
 1442年(嘉吉2)99代後亀山天皇長男小倉宮良泰親王第四皇子尊義親王、植月御所で即位、御南朝高福天皇と称し年号を天晴と、改元1446年2月15日高福天皇第二皇子忠義親王誕生、1458年第二代興福天皇崩御の後、第三代忠義天皇と称し即位、その後10年、1467年京郷に応仁の乱起こり、山名宗全が忠義天皇を京都に迎え、1471年京都北野梅松院に入御の後、安山院に天皇ろとして遷座ましますが応仁の乱後、山名刑部少輔清成と共に植月御所に遷幸、皇子尊朝親王に譲位し金森山新蔵坊(新善光寺)に隠居をなし禅定法皇と称す、1480年(文明12)3月17日、35歳にして崩御、この地に葬れりと伝えられる。平成8年10月8日 謹書(文:案内板より)(2018年1月6日撮影)

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平成30年(2018)初日の出 in 牛窓

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 2018年元旦の初日の出は牛窓でゆっくり拝もうと思い行って来ました。初日の出は「元旦に改まった気持ちで見る朝日」、ご来光は「高山で望む荘厳な日の出」という意味で何も元旦だけのものではないそうです。
 日本のエーゲ海とも言われる牛窓。しかも目の前が海の「ペンションくろしお丸」。温かいお部屋から初日の出を拝む大層贅沢な元旦を過ごしてきました。

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「四天王と十二神将」池田泰弘切り絵展

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 2018年1月6日(土) 10:00 〜 2018年2月12日(月) 17:00 棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)にて「四天王と十二神将」池田泰弘切り絵展が開催されています。今回の展示作品は、斎藤晃久・春江夫妻展『四天王と津山桧』で好評だった作品が飾られています。池田さんは、昭和63年久米南で生まれ平成19年に誕生寺養護学校在学中に岡本裕先生のもと切り絵と出会ったのが縁だったそうです。池田さんは、平成19年3月アルネ津山アートギャラリー2に於いて中国三国志人物剪紙切り絵展を開催されたのを皮切りに現在まで数多くの個展を開いて活躍されておられます。

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天守にある「常用の井戸」

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お城の井戸
 雨上がりの津山城跡を訪れた時、石垣から大量の水が噴き出しているのを見かけた。その場所は裏中門南桝形南面の石垣である。津山城跡の中で唯一岩盤が観察される場所である。北斜面の地形を削平し桝形を造出しているが、この時、南石垣面で高さ約1メートル程度にわたり岩盤が削り取られている。石垣はこの岩盤の上に直接積まれており、地下に浸透した雨水はこの岩盤面をつたって石垣から噴き出していたのである。これを見て、丘陵の頂部に位置する本丸の井戸にも水が溜まるということが理解できた。

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【津山人】田中富三郎(加茂町)

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 1868年(明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営。加茂西小学校に図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与される。サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争と日露戦争で数々の危難をまぬがれ、サムハラ大神の霊徳を世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立。神前扉材は伊勢神宮より賜った。戦時中に兵士にお守りを贈る活動をしていたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に配布していた。多くの要人にも贈呈をした。90歳までは自転車を乗り回すことも平易だった。97歳の時でも壮健であり自らを青年と称した。「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱。毎朝参拝を欠かしたことはなかった。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。(文:ウィキペディアより)

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