仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

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 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

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 一八五五年(安政二)、大坂より帰郷し私塾を開くが、一八六〇年(万延元)には官許を得て郷校「籾山黌」を設立、漢学・医学などを教え、多くの門弟を育成した。
 維新後の一八八〇年(明治十三)、県会議員に当選し吉井川改修に奔走。一八八二年(同十五)、民権論が起こった際には、中島衛らと「美作自由党」の結成に参画、また一八八九年(同二十二)、立石岐・加藤平四郎と共に上京し、国会開設を前に政党間の調停にあたり「美作板垣」と評された。一九〇二年(同三十五)九月二十四日没す。享年七十三歳、門人葬をもって郷王山に葬られた。
 一九二一年(大正十)、立憲政体創立志士慰霊祭に合祀される。一九二六年(同十五)、立憲志士精霊位に合祀され、十月には、仁木永祐を慕う人たちによって籾山黌跡地に顕彰碑が建立され、除幕式が遂行された。

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 仁木永祐生誕一八〇年にあたり、籾保町内会、籾保老人クラブ、津山洋学資料館友の会、津山市医師会、仁木永祐後裔、市民有志の協力によって、案内解説板を設置し整備したものである。
 平成二十二年十一月
  仁木永祐生誕一八〇年記念事業会(文:説明板より)(2018年8月18日撮影)

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上り口

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郷校籾山黌跡地より望む             籾山黌跡地


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