2013近畿・中国・四国 B-1グランプリ in 津山
2013近畿・中国・四国 B-1グランプリin津山が5月25日・26日に執り行われました。両日ともうだるような暑さの中25日(土)23,000人、26日(日)48,000人で合計71,000人の来場者がありました。8府県16団体が出展し、ゲスト参加は八戸せんべい汁研究所(青森県)や浪江焼麺太国(福島県)でした。本当に遠い所から参加くださった皆様に感謝です。
2013近畿・中国・四国 B-1グランプリin津山が5月25日・26日に執り行われました。両日ともうだるような暑さの中25日(土)23,000人、26日(日)48,000人で合計71,000人の来場者がありました。8府県16団体が出展し、ゲスト参加は八戸せんべい汁研究所(青森県)や浪江焼麺太国(福島県)でした。本当に遠い所から参加くださった皆様に感謝です。
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(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真
津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。
☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!
得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。
また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。
黒媛伝説
黒媛は吉備の海部直の娘で、容姿端麗であったために都に召され、仁徳天皇の寵愛を受けながら、皇后の磐媛の嫉妬にあい故郷である山方(形)の地へ帰された。その黒媛を慕って仁徳天皇がわざわざ草深い山方(形)を訪れ逢瀬を重ねたという古代のロマンスが「古事記」に載っています。
この伝説は、八幡神社の由緒にも記されています。そして、この水原古墳は「黒媛」の墓(黒媛塚)だとされており、他にも山方(形)地内には、黒媛が住んだ所といわれる地名などが今も残っています。古歌にも仁徳天皇が山方(形)の地に黒媛を訪ねたときに詠んだ歌、黒媛が返歌を詠んだものなど、この地にゆかりの深いと思われるものが少なくありません。
昭和12年4月、この古墳が発掘されたことは勝北町誌にも掲載されていますが、当時の出土した陶棺などは、現在、東京国立博物館に保管されています。2012年10月25日取材(文:看板より)
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沼住居跡のさくら、 メチャ綺麗なもみじ、 弥生の里文化財センター
津山市沼、津山盆地が見渡せる丘の上にある弥生時代の集落跡。竪穴式住居・高床式倉庫・作業場があったとされ、現在ではそのうち、竪穴式住居1棟と高床式倉庫1棟が復元されています。隣接の津山弥生の里文化財センター(入場無料)で発掘成果などを見学できます。(2012年7月31日)
沼弥生住居址群《昭和31年7月4日津山市指定記念物(史跡)》
昭和27年、最初の発掘調査が行われました。調査は、その後数次に亘って行われ、円形・隅丸形などの竪穴式住居址5棟、長方形竪穴住居状遺構1棟、高床倉庫址3棟、そして住居址群と倉庫址群を分断する溝状遺構などが検出されました。このうち最大のA竪穴住居址は、火災により廃棄されたもので建築部材が炭化して残っていました。
出土遺物には、中・後期の弥生式土器片、稲の穂を刈り取るための石包丁、手斧(ちょうな)とされる扁平片刃石斧、たたき石などがあります。
沼弥生住居址群復元住居(津山市沼597-1)文:「津山市の文化財」より抜粋
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県指定史跡 久米廃寺 津山市宮尾(2012年7月3日・25日取材)
この地には「唐臼」呼ばれる古代寺院の塔の心礎があり、小字名も「唐臼」と称されていました。
この寺院跡は、この地方が古代の美作国久米郡久米郷に属していたことなどから、久米廃寺と呼ばれていましたが、中国縦貫自動車道(当時)建設工事に伴って実施された発掘調査(昭和44~46年)により、説明板にある復元想像図のような寺院のあったことが明らかになりました。このため日本道路公団と協議して高架橋に設計変更して遺跡が保存されました。
この久米廃寺は、今から約1,300年前(白鳳時代)に創建された寺院ですが、火災にあい、平安時代の前半には廃寺となってしまったようです。最盛期の寺域は東西130メートル、南北110メートルの規模で主要な建物である金堂・塔・講堂が、回廊または築地塀の中に東西に並列して立てられ、東側の一段低い谷の部分に雑房(寺院関係者の生活場所)がありました。この場所に接して東方に「宮尾遺跡」があり、掘立柱建物など22棟が発掘されました。これは白鳳時代から奈良時代に存在した「久米郡衙(くめぐんが)」の跡と考えられています。
当時の郡衙の役人(郡司)には地方豪族が任命されることが多く、彼らは権威の象徴として、寺院を造営し、民衆に誇示しました。久米廃寺の建立にも、こうした背景がうかがわれ、初期仏教文化の地方における受容の姿を知るうえで、この久米廃寺は貴重な遺跡といえます。昭和52年04月08日県指定史跡
主な出土品/仏像(塑像仏・塼仏)・青銅製相輪、蓮華文軒丸瓦その他多数
平成2年3月岡山県教育委員会(文:案内板ほか)
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2012年5月6日の津山城(鶴山公園)のつつじです。今年は花のつきがいま少しといったところです。でも色とりどりのつつじが綺麗でした。藤の花はさっぱり咲いていませんでした。少しがっかり!この日はお天気も良くてゆっくりベンチで友人と語り合いました。緑が一杯の津山城(鶴山公園)本丸から見る津山市内はまたいいものです。みなさんもいかがですか?(過去の取材)
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田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑) 2012年1月7日取材
中村周介は宇田川榕庵が津山藩医頃、医学と算聖の関 髙和髙弟青木正蔵より和算を修め田熊に帰り医業を継ぎ、また多数の和算の門人を持った。
中でも甥嘉芽市は幼少より算用に通じ人々に「天童」といわれ、周介の教えに熱中、寝食を忘れて勉学、15、6歳で田熊流とさえいわれる和算の奥義を窮めることができた。(周介72才)
文化4年、亀田代官が周介翁を訪ね「堀坂村の井堰が大雨毎に流れ、水の取り入れ口が洪水の進入路となり百姓達は、泣いて訴えます。よい設計はないでしょうか?」と頼まれました。
周介は堀坂の墜道堀盤工事のことを嘉芽市に説明し、16才の天童少年に全部を頼り切った。周介と嘉芽市の設計施行の暗渠堀盤は独創適確な妙案であった。簡素な測量器、曲尺や夜は提灯利用、駆使し和算のうりょくの全力を絞り切って延長百米の大墜道を鎚とタガワで両側から掘って約1年で貫通させた。一当時は日本初の工法といわれたー
周介亡き後嘉芽市は、天下に師を求め、江戸に上り幕府天文方御書物奉公、高橋作左衛門に師事し天文能史の奉行高橋作左衛門は、シーボルトの持つ「世界周航記」「ナポレオン戦記」ほしさに、国外出禁の伊能忠敬の蝦夷測量図と交換した。このことが間宮林蔵よりもれ作左衛門景保先生関係者は、極刑に及び門人嘉芽市も幕府の隠密をさけ、死地を脱す。年25歳帰省後は、「田熊算仙」といわれて二百余名の門人を持ち、また里正となり帯刀を許された。明治11年10月10日没す73歳。(文貴)下山陸治
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▲写真提供:広野小学校校長先生
広野小校門を入っての石碑周辺は、戦前における広野小教育の歴史が、象徴的に凝縮されている感がある。創立期の松本譲先生の碑、尋常小学校時代の井上周平先生の碑、御大典記念(昭和天皇御即位記念)と刻まれた石柱、修身を代表する人物二宮金次郎の像、そして、社こそないが原型をとどめている奉安殿跡などがうかがえるからである。
広野小の二宮金次郎像は、戦前の修身教育がさかんであった当時に建立された。台座裏面に、昭和9年7月10日橋北関平作とある。「勤倹」(きんけん)と書かれた立派な台座に比べ、塗りがはげてコンクリ部分が剥(む)き出しになっている、不自然に小さな像は、戦時中供出した銅像の代替品ではないかと想像されるが定かではない。
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福井 整った石室の土居火のかま古墳 (2012.1.15取材)
片山・桑田集落から四つ立橋を渡ると、大崎方面と勝央方面に道が別れている。
その福井から勝央町にぬけるゆるやかな坂道(工門勝央線)を数百m上って行くと、右手の道べりに木の茂った小さな墳丘が見られる。これが、土居火のかま古墳であり、別名穴塚と言われてい古墳である。
墳丘部の東側は、ぽっかり穴が空いており、入口に「史跡土居火のかま古墳指定 広野地区文化財保護委員会」の標識が立てられている。昭和50年代後半に、広野の公民館活動のなかに文化財保護委員会ができ、こうした文化財標識を設置する活動が行われた。
古墳の中は、大きな石を使って整えた石室が見られ、石室だけから言えば、がっちりとした立派な保存状態の横穴式石室である。この古墳の規模は、周辺が段差のある耕地となっていることから、基底部分はもっと広がっており、おそらくは今に倍する大きさの円墳ではなかったかと思われる。
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神南備山に昇る朝日(嵯峨山より)
押渕・下種・荒神山を経由して種から皿に至る旧出雲街道には後醍醐天皇にまつわる史跡が点在しますが、その中で「御駐輩場」と呼ばれる場所があります。ここには後醍醐天皇が隠岐島にご配流の際「輩」を止められ休まれた場所として、種地区の人たちの手で整備され、立派な歌碑が建てられています。