津山に谷崎潤一郎、東山魁夷が来ていた。
(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真
津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。
☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!
得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。
また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。
備忘録の一部(この中に谷崎潤一郎の津山での様子が書かれている)
備忘録の一部 (「谷崎潤一郎詳細年譜」に谷崎さんの生涯が詳しく載っています。)
墓所の表門である唐門は元は東照宮神門を総門の位置に下ろしたものであり、元の総門は大谷の教本寺に移転されて表門として使われています。
もとの東照宮はいま地蔵院の本堂になっていますが、藩主が東照宮参拝の折、休憩所として建てたものを「宕々庵」と名付けました。 右二つの写真は宕々庵の前庭で撮った写真です。
宕々庵の屋根と池と得能さんへあてた手紙(津山朝日新聞記事より抜粋)
宕々庵の前庭で撮影した写真(後ろの石灯籠は今は衆楽園にあるそうです。)
宕々庵の前庭で得能氏先祖を撮影した写真
宕々庵の見取り図
宕々庵の見取り図
八子愛山廟は、東照宮と津山藩最後の殿様 慶倫(よしとも)公、室の儀姫(のりひめ)(後で静儀と名乗ります。)の墓地です。
慶倫公は明治4年(1871)7月26日津山で45歳で没して、八子愛山に葬りました。
室の儀姫は明治13年(1880)1月3日に東京で亡くなり、東京白山浄土寺に葬られ、爪と髪が津山に持ち帰られ、慶倫公と共に八子愛山にあります。
儀姫は筑前福岡藩黒田斎博の女(養女)として津山に嫁してきました。実父は奥平昌高(豊前国中津藩第5代藩主)の娘です。又、慶倫公没後は、世子康倫(やすとも)が津山松平家を継ぎます。(康倫は先々代第8代藩主松平斎民(確堂)の4男ですが、父が健在だった、明治10年(1877)に米国留学から帰朝した同年12月30日に22歳で没しました。
この康倫公と儀姫(康倫の義母になります。)2人の墓が、東京白山浄土寺に寄せ墓になっていることがわかりました。(文:得能良平さん)
▲この写真は「津山浪漫館にて展示してありました。」
昭和5年頃の津山朝日とよしひらの間の道で撮影 ▲西田さんは、法大の田岡嶺雲の研究家で来津したときの写真です。この写真は明治の思想家田岡嶺雲が、芸者小大(おたい)と恋に落ちた料亭「可月亭」の離れです。(今は大雄寺境内に移築し、「嶺雲庵」として保存しています。)
明治11年11月の追い廻し御庫の写真です。(今の伏見町、材木町附近)
山陽新聞(明治19年7月9日) 嘉永4年の江戸鎌倉地図
皇太后宮御大葬式行列之畧圖(明治30年1月28日印刷同年2月2日発行 大阪市北区天神筋75番屋敷 平民 中村仁三郎)
あの東山魁夷が昭和43年に津山に来て、武家屋敷(得能家)と衆楽園の絵を描いていたのにびっくり。
週刊朝日に東山魁夷が書いた得能さんの旧宅
週刊朝日の雑誌表紙と東山魁夷の書いた衆楽園の絵と得能良平氏
東山魁夷さんが津山に来たことは間違いないと奈義の美術館学芸員の岸本さんから連絡を受けたときの得能氏の文章と亡くなった時の新聞。
(情報提供:得能良平氏)
吉川為太郎の手紙(結婚未来記)
吉川為太郎の手紙(結婚未来記)
得能良平宅(寿司よしひら)を借りていた有木氏宛に来た吉川為太郎の手紙