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津山洋学資料館 春季企画展「文明開化と美作の医学」

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平成30年度津山洋学資料館春季企画展 「明治150年記念 洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」より

維新前夜
 幕末の日本は、ペリー来航、開国から、尊皇攘夷の高まり、長州征伐、尊王倒幕、大政奉還と続き、戊辰戦争へとつながる動乱の時代でした。事件・出来事に対する情報が錯綜し、流言飛語が飛び交うなど騒然とした雰囲気が社会を包んでいました。そのような中で、人々はより正確な情報を求めました。友人知人からの手紙では、自身の近況のみならず、巷に流れる噂や、知り得た情報が報告されるようになります。また、幕末には「新聞」が生まれましたが、中には発行者にとって有利な状況を作るべく、それぞれの立場から見た情報を庶民に提供するものもありました。
 このような混乱の中で、江戸幕府から新政府へと政権は移り、270年続いた江戸時代は終わりを告げたのです。しかし、民衆にとっては、それで混乱が沈静化したわけではなく、その後に続く新たな変化の始まりでもありました。


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オオカミ様の話『山西の民話』

ookami.jpg山西の入口に石の燈籠がたっている。その裏側に明治32年巳亥年8月建立と書いてある。この燈籠は明治末期から大正8年迄、毎夜村人の手によってともされたものであった。
一方では村の道しるべでもあり、他方では神様に対する信仰心から献灯でもあった。
当時、信仰のあつかったのは、お伊勢様、金刀比羅様、小豆島、宮島とオオカミ様であった。


昔、山西から津山のお城下に出る主要道路は、西の道ー越木峠ー春長を通り、松葉峠から野介代を経て、八出の船着場に出て行く道筋が主だった。だから、今でも越木峠の向うに逆迎場(酒迎場)という所があり、小さい社(荒神様)が勧請してある。村(部落)の代表のものが宮詣(お伊勢様にまいり、宮島にまいり、小豆島を巡礼し、金刀比羅まいりをし、近くはオオカミ様に参拝する)のをここまで見送りに来て、平穏無事を祈って酒もりをしたり、又、何事もなく無事に帰って来た代表のものをよろこび迎え、その労を犒う酒もりの場でもあった。新道が山西の東-鹿の子から飯綱坂につづく様に出来たので、新道に展望のきく山西の入口に、明治の人々(明治32年)に建立した信仰と文化の標識でした。

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お彼岸の御霊祭り(みたままつり)

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2018年9月22日に野村の保田家を訪問してきました。保田家は神道で、お彼岸には先祖の霊を祭る行事として「御霊祭り」があり、太夫(宮司)さんが祝詞をあげるとお聞きしてその様子をカメラに収めさせていただきました。
「我が家は、春と秋の彼岸に先祖の御霊様をお祀りします。毎年、御霊祭りのために家や庭を綺麗にし、太夫さんをお迎えする準備をします。年に2回、丁度良い気候の折に家をきれいにすることで、精神的にもピリッとして背筋が伸びる気持ちになれます。」と語って下さいました。参加して、とても静かで厳かな先祖まつりだと感じました。

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芦田高子 文学碑(林田)

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「ふるさとを よぶこゑに あふれゐる時も 晴れて静かなり春の大那岐」芦田高子(あしだたかこ)
昭和の与謝野晶子と呼ばれる。高子(明治40年~昭和54年)は勝田郡勝北町出身。昭和22年、歌誌「新歌人」を主宰、晩年は金沢に住んだがふるさと美作を詠んだ作品は多い。作品では内灘反基地闘争に材を取ったヒューマンな「内灘」が有名。
丹後山 昭和55年11月 設置

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美作東部―大庄屋巡り「光井弥太郎尚常」(河面)

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光井弥太郎尚常(河面村)
 河面村は勝北郡に属し、北は近長村、南は福井村である。正保郷帳では田方五百三十三石余・畑方三十四石余。森藩断絶後、元禄十一年から幕府領となり、寛政六年から文化十四年迄は播磨国龍野藩預地、文政元年以降は再び津山藩領となる。現在は津山市河面である。勝北は美作国北東部にあって中世末には勝田郡と称していた。慶長五年小早川秀秋が入封して美作七郡を十二郡に再編したとき勝南・勝北に分けたとと云わる。郡境が明確にされたのは慶長検地によってであろうと云われる。元禄十一年以降は勝南・勝北郡として定着し、明治三十三年に合併して勝田郡となって郡名が消えた。

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仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

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 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

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8.11アラ還津山フォーク・ロックデイ

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 2018年8月11日に音楽文化ホール ベルフォーレ津山に於いて「8.11アラ還津山フォーク・ロックデイ」が開催されました。第1回、2回は津山文化センター、今年はベルフォーレに於いて還暦世代を中心とした音楽愛好家が集い、熱く青春を歌い上げました。知っている歌が流れるとやっぱり感動しますね。

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四国八十八ケ所霊場巡拝<第37番~第40番>

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 2017年10月30日(月)朝6時清龍寺を出発して宇和島泊で四国八十八ケ所霊場巡拝に出かけてきました。
 今回は37番岩本寺から45番の岩屋寺までの9ヶ寺です。順路は第37番 岩本寺 ⇒ 第38番 金剛福寺 ⇒ 第39番 延光寺 ⇒ 第40番 観自在寺 ⇒ 宇和島(泊)⇒ 第41番 龍光寺 ⇒ 第42番 佛木寺 ⇒ 第43番 明石寺 ⇒ 第45番 岩屋寺 ⇒ 第44番 大宝寺の順番でした。

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武蔵の記念館・武道館

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 剣聖宮本武蔵は、この地岡山県美作市宮本において、父・平田無二斎と、主家新免家の妹お政の次男として天正12年3月(1854年)に生まれました。
 武蔵の生家は、北を宮川で南を小童谷川で守り、30間(約60m)四方の強固な堀めぐらしていた、宮本の溝と呼ばれていました。山柴水明の山の丸い武蔵の里の構えは、地理的には山陽と山陰の重要な連絡路であった因播州街道に沿ってあり歴史的には中世、特に戦国時代には山陽と山陰の両勢力による略奪の地がこの旧大原町でありました。
 武蔵の家系は代々十手術を伝えてきたので、当然武蔵も平和な今日では考えられない厳しい剣の教育を受けたものと思われ、幼少の頃から武術にたけており、13歳の時播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ってからそれ以降、剣の道一筋に練磨し、その間京都の一乗寺下り松での吉岡一門との戦いを始め、29歳で九州舟島において、佐々木小次郎に勝つまで生涯60余度の勝負に一度も負けたことがありません。

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ふるさと資料館「温故懐館」春の特別展2018

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2018年5月3日(今年は5月1日~5日まで)に温故懐館へ行って参りました。行くたびに、今年はどんな作品に出会えるかワクワクします。ここは、郷土の農機具・書や絵など、江戸時代から昭和の作品約10,000点が展示されています。また、今年は津山藩士で文人画家の広瀬 臺山の特別コーナーが設置されていました。(2017年の様子はこちら

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