武蔵の記念館・武道館

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 剣聖宮本武蔵は、この地岡山県美作市宮本において、父・平田無二斎と、主家新免家の妹お政の次男として天正12年3月(1854年)に生まれました。
 武蔵の生家は、北を宮川で南を小童谷川で守り、30間(約60m)四方の強固な堀めぐらしていた、宮本の溝と呼ばれていました。山柴水明の山の丸い武蔵の里の構えは、地理的には山陽と山陰の重要な連絡路であった因播州街道に沿ってあり歴史的には中世、特に戦国時代には山陽と山陰の両勢力による略奪の地がこの旧大原町でありました。
 武蔵の家系は代々十手術を伝えてきたので、当然武蔵も平和な今日では考えられない厳しい剣の教育を受けたものと思われ、幼少の頃から武術にたけており、13歳の時播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ってからそれ以降、剣の道一筋に練磨し、その間京都の一乗寺下り松での吉岡一門との戦いを始め、29歳で九州舟島において、佐々木小次郎に勝つまで生涯60余度の勝負に一度も負けたことがありません。

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 しかし武蔵は強いだけでなく、五輪の書のなかに「30を越えて跡を思いみれば、兵法至極にして勝ちにあらず...」とあるように深く己を省み、それより朝鍛夕練、諸国をめぐって50歳にして兵法を究めたといいます。そして天下の兵法「二天一流」をあみ出しました。
 晩年はもっぱら書、絵、彫刻、工芸を好み、また深く禅の修行も重ねました。「枯木鳴鵙図」など、今日重要美術品とされている数々の作品を遺した芸術家でもありました。57歳の時、熊本藩主細川忠利公に望まれ熊本に移り、霊厳洞にこもり武蔵の兵法に基なる「五輪書」を書き生涯かけて厳し自らを戒め、堅く心に誓った処世訓「独行道」など、数々の人への教えとなるものを数多く遺して正保2年5月(1645年)に熊本の千葉城において62歳の生涯を閉じ、弓削の里に葬られました。(文:武蔵生誕の地立て看板から転載)

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淡墨桜(散りぎわに淡い墨色を帯びることから、淡墨桜といわれる。国指定天然記念物である岐阜県根尾村淡墨桜の種子から育てた苗木を植樹した。継體天皇のお手植えともいわれる。)

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武蔵道場
 現在は、地元青少年の剣道練習はもちろん、兵法二天一流や空手の稽古に、大学・高校の剣道部の合宿等に利用されている。

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青年期宮本武蔵像
 彫塑の巨匠故富永直樹氏により、平成七年武蔵の里「五輪坊」庭園内に建立された高さ五・六メートルの若き日の武蔵像。
 観光客が記念写真を撮影をしたり、春には桜が咲き誇り、まさに「武蔵の里」のシンボル的な銅像である。

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青年期宮本武蔵像台座の碑文

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広い庭には鯉が泳いでいます。

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武蔵資料館
 武蔵自筆の「達磨頂相図」、武蔵自作の「瓢箪鯰図鍔」「頬当」「小柄」など武蔵ゆかりの書画・刀剣・鎧が数多く展示されている。(文:「武蔵の里めぐり」パンフレットより)(2018年5月27日撮影)