オオカミ様の話『山西の民話』

ookami.jpg山西の入口に石の燈籠がたっている。その裏側に明治32年巳亥年8月建立と書いてある。この燈籠は明治末期から大正8年迄、毎夜村人の手によってともされたものであった。
一方では村の道しるべでもあり、他方では神様に対する信仰心から献灯でもあった。
当時、信仰のあつかったのは、お伊勢様、金刀比羅様、小豆島、宮島とオオカミ様であった。


昔、山西から津山のお城下に出る主要道路は、西の道ー越木峠ー春長を通り、松葉峠から野介代を経て、八出の船着場に出て行く道筋が主だった。だから、今でも越木峠の向うに逆迎場(酒迎場)という所があり、小さい社(荒神様)が勧請してある。村(部落)の代表のものが宮詣(お伊勢様にまいり、宮島にまいり、小豆島を巡礼し、金刀比羅まいりをし、近くはオオカミ様に参拝する)のをここまで見送りに来て、平穏無事を祈って酒もりをしたり、又、何事もなく無事に帰って来た代表のものをよろこび迎え、その労を犒う酒もりの場でもあった。新道が山西の東-鹿の子から飯綱坂につづく様に出来たので、新道に展望のきく山西の入口に、明治の人々(明治32年)に建立した信仰と文化の標識でした。


大正7年、父が部落長をしている時、いち早く電灯を導入した時、この道端に立つ燈楼様(当時の人々は燈楼様といっていた)今迄毎夜ローソクを持って順番に燈明をあげに行っていた繁雑をさけて電灯(六燭光)をつけた。
電灯はとっても明るくー文化の村ー山西の代表的な存在だった。


ずっと昔のことです。本家に強盗が押入ったことがありました。丁度その夜主人夫妻が一端のお薬師様に参籠した夜のことでした。三人組の強盗は女、子供をしばりあげて、タンスから衣類やお金、貴重品を盗んで帰った。その夜、山西の街道を狼が狼鳴きをして上から下へと走り抜けていった。村人は「昨夜は狼がなきなき走って通った。何ぞ悪い事がなけりゃよいが」と言いあった。
夜が明けてから、本家の強盗事件を知った。さては狼がこのことを報せてくれたんじゃと不思議に思った。


それから一年たった時、又狼がなきなき通った。何か悪い事がなけりゃよいがといっていた矢先、柳やんの牛が田んぼで耕作の途中倒れて死んだ。死にそうにもない元気な牛で、柳やんと一緒で田んぼに出て働いた途中、突然に倒れて死んだ。柳やんが我が子を失った様に倒れて死んだ牛にとりついて大声で男泣きに泣いた。村人はこの様子を見て、みんな貰い泣きをした。
それから又一カ月ほどして、狼がなきなき上から下へと走り抜いていった。みんなが、又不吉な予感に打たれた。案の定、真家の質蔵に強盗が押し入った。質種をごっそりとって帰った。然しこの時は真家のウタおばさんの力で強盗をとり押さえ盗品をとりもどした。みんな真家のウタおばさんの偉いのに舌をまいた。その翌年の秋、又狼が鳴き鳴き道をかけ抜けて行った。


村人の心はおびえきっていた。こんどは田んぼの稲藁が燃え出した。見る見るまに一はぜ二はぜと燃えて行って、一反余りの稲藁が火となって行った。やっぱり狼神様のたたりだなどと語り合った。庄屋の音頭で御祈祷がはじまり、おまじないをしてもらった。行者はねんごろに祈祷の末、「やっぱり、狼神様の祟りじゃ。狼神様を勧請して、みんなでおまつりをする様に」といいつけられた。そこで村の代表のものが三名、桑村の狼神様に参詣して、祈祷をしてもらって、お札をもらって各家庭に配った。被害を受けた家や熱心な信者は遠く狼神様におまいりして、分神を頂いて前庭の一番おくに仮宮を勧請して、只管、神の加護を祈った。仮宮の中には狼神様から頂いてきた白木の箱の中に狼神様のみ霊が入っていた。み霊は狼神様の本社で12月13日・14日み霊替が行われて、信心深い村人は三人、五人とつれだって五里の道を遠しとせず、本社におまいりして御神体を頂いて白木綿でつつんで背におうて帰った。


「決して後をふりむくな。立ち寄りもならん。まっすぐに帰れ」
との託宣を信奉して飲まず、食わずに家にまっしぐらに帰って、仮宮にうつしたものでした。
その後、部落中のものが、秋の収穫期には順番で二人ずつ狼神様にまいって平穏無事を祈る事が部落の決議できまって、明治から大正の末期までつづきました。


それから後の或る年、五やん方に火事があった。
「火事だ。火事だ」
と大さわぎをしているとき、一匹の猛犬(?)がとび出してきて、火玉を食わえてとびさった。村人がアッと驚いているうちに、火は次第に下火になって消えていった。みんな狼神様の御神助だと口口にとなえた。
そこで、庄屋を中心に御献燈の儀がでて、村人に相談があった。本家は一番始めに浄財を出して帳口を飾った。被害を受けた家々は競って浄財を出し、貧者も亦応分の寄進をした。石材が運ばれて、明治32年巳亥年に燈楼は完成した。新しい新しい山西から津山へ出る道べりに燈楼はたてられた。村の新道の入口に建った燈楼には、夜毎に村人の手によって灯明があげられた。かわらけの皿に種油が一ぱい燈すみ一本の小さい灯は夜通し光々と輝いて村人の信心を神につげた。たった一本のとおすみの光ながら、不滅の光は何年もつづいて輝いていただろう。今、石燈楼の天井の黒いすすはこの長い歴史物語ってくれるでありましょう。


それから百年、誰も気づかぬ間に、燈楼は道のへりにだまってたっている。
今、交通の盛んな時、現代人から忘れられようとしている燈楼はどんな思いであろうか。昔の物語りをこの燈楼がすれば、ありし日のことも詳しく話してくれることだろうに。 
縦貫道を行き交う自動車に、蛍光灯が輝く夜道に、灯り一つない夜道にも、もの言わず建っている燈楼、今の若い人達は何にも知らんだろう、今にして伝えておかないと永却に忘れ去られるであろう。この燈楼をなつかしむ心で一ぱい、心から労をなぎらいたいものがある。


山西村(詳しくは旧名苫田郡高野村大字高野山西、現在津山市高野山西)の昔の姿を伝えたい念願から、この稿を起こしたものである。
 老人の懐古趣味だと笑うだろうが、私も喜寿の齢ををこして、余命いくばくもなしと思うと、何かしら、山西村の文化遺産が消え去ろうとしている様な錯覚が出て、おしまれる様な気がしてならんので、思い出をつづりました。まだまだあると思うが、一応この辺で打ち切りました。
 これらの民話は、私の子どもの頃、祖母が折にふれて物語ってくれた話をもとにして書いたものである。大方の皆さんの御指導と御批判を頂きたいものである。          
1985年7月1日著者しるす。故高橋明治(たかはし・あけはる)/明治39年3月22日津山市高野山西生まれ