八幡神社(院庄)
由緒
創建年代は不詳であるが、美作の政治の中心地に鎮座せられたので、多数の氏子を有し、祭事も盛んであったが、津山に政治の中心が遷ってから衰退し、一時は吉田神社の境外社であったが、明治六年に村社に列した。昭和十六年神饌幣帛料供進指定神社に指定せられた。(文:『岡山県神社庁誌』より)(2019年1月19日撮影)
由緒
創建年代は不詳であるが、美作の政治の中心地に鎮座せられたので、多数の氏子を有し、祭事も盛んであったが、津山に政治の中心が遷ってから衰退し、一時は吉田神社の境外社であったが、明治六年に村社に列した。昭和十六年神饌幣帛料供進指定神社に指定せられた。(文:『岡山県神社庁誌』より)(2019年1月19日撮影)
当山の開祖は、嵯峨天皇の時代嵯峨山と伝えられていますが不詳です。播磨の三木城主別所家の菩提所として再建され、別所寺と呼ばれていました。
天正八年(1580)正月に三木城が落城し、別所長治自刄の翌年、宇喜多和泉守直家により別所山安養寺と命名されました。慶長の初め、快鏡上人により再興され、度々の災禍の後、弘化三年(1846)に日笠快道上人が新住され、私財をもって本堂、庫裡を再建され、宝筺印塔を建立、西国三十三観音を勧請、野津羅井堰築堤して水路を開くなど、中興の祖となられました。久田村安養寺の略歴です。
平成五年、もとは旧奥津町土生にあり、奥津ダム建設のため当地を得て再建、平成十年四月に落慶しました。
本尊は、阿弥陀三尊です。他に鎌倉後期の等身大十一面観音、室町期の不動明王ほか、聖観音、弁財天、毘沙門天などを祭祀してあります。西国三十三観音は南の山、岡山から北の山、天王ノ木にかけて勧請し、遊歩道も整備してあります。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)(写真:2019年9月16日・20日)
岡山県久米郡久米南町「醫王山佛教寺」の略歴と沿革
当山、醫王山佛教寺は和銅3年(710)喜恵上人が開山、肩野部長者乙麻呂が創建した古刹。元明天皇の勅願道場として、東西80町南北100町の地域を賜った。
元慶3年(879)二十二世、文観上人の時代、陽成天皇の勅願道場として、四十九院建立、近隣に比類なき伽藍美を誇ったが、天正9年(1581)兵火に罹れて悉く烏有に帰した。
その後再建したがわずか六院だった。慶長9年(1604)津山藩主森忠政が寺領を寄進。堂塔を再建したが、元禄10年(1697)森家が断絶となり、経営の基を失って困難を極めた。
明治初年まで六院あったが、本堂や仁王門を取り壊して、竹林寺(佛教寺別院)の文殊堂を移して本堂とした。
現在諸堂の建物は、弘法大師1150年御遠忌を記念し、昭和49年より現在に至るまで、境内諸建物の営繕を行って来た。現在の住職は九十二世である。
『竹林寺縁起』(永享7年=1435別当沙門良春、筆者宥然)に、「当国一宮、仲山大明神御社敷の本主肩野部長者・喜恵上人に帰依し奉り上人の寺を建立せんとして三百町の別所を開き、元慶3年乙亥の年四十九院を建立、夢想によって佛教寺と号す」とある。(文:佛教寺リーフレットより)(2019年9月8日撮影)
高野山真言宗準別格本山両山寺
当、両山寺は、人皇四十三代元明天皇の御宇和銅七年(714)開祖泰澄法師が観音の霊夢により草創されし霊刹で御本尊は、正観世音菩薩にして尊像は天竺毘首羯摩の作なり。山は二峯併立し恰かも金胎両部を表示し、一岳両峯真に天地自然の妙容なり、故に山を二上山と呼び、寺を両山寺と号す。開山の砌りは、真言、天台の二道場にして二十有余坊の僧坊、七堂伽藍を有し近国の名刹として頗る聞こえしがいつしか天台宗衰え真言一宗となり、現在は本坊一寺となり他は字名として残るにとどまり栄枯盛衰の跡を物語るにすぎない。養老年中(717~723)唐土の不空三蔵当山の本尊を加持し、国家安泰を志願し五智尊像を五重塔に納められるが、永禄八年(1565)尼子氏と毛利氏の奸戈により堂塔伽藍を焼失せり。此の時、本尊正観世音菩薩天野ヶ原に飛行士光明を放ちて赫々たるを朱雀天皇の御苗流僧正良尊大和尚直に尊像を守護し奉って、再び此の地に堂宇を建立し本尊を安置す今の本尊即ち是れなり。
なお、元禄元年(1688)十一月朔日、当国の大守長成公より万代不易の寄附顕然たり。而して当山、其境幽遽にして頂嶺の遠望は両眼象山恰かも平地の如く一度山頂に立てば雄大の気自ら迫り無二の霊場と言う可きである。また当山の鎮守護法善神は、仏法擁護、伽藍安全の守護神で、建治元年(1275)七月僧定乗護法の詑宣を得て、毎年陽暦八月十四日祭式(県指定重要無形民俗文化財)を修め天下泰平、万民快楽の祈念を行っている。 合掌(文:境内の案内板より)
祭神は産土荒神で、地元の氏神様として毎年11月に甘酒祭が行われている。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
津山市西田辺地内の鵜ノ羽川と県道が交差する地点で、民家の出入り口の県道脇に立派な灯篭が建立されている。灯篭の碑文内容を要約すると、安政年中(1854~1859)に田原安五郎が発起して津山より香々美中村までを道路改修し、そして、その遺志を継いで息子田原平五郎が明治4年に一宮から人形峠まで道路改修を始めたと刻字されている。
植月家 植月六郎右衛門 久米南条郡一方村 森藩~松平藩
大庄屋まで
植月氏は、美作菅家七党の一つである。家譜によれば、その子孫が宇喜多氏に仕えて一方村を与えられ、神南備山北麓に居を構えた。これが一方村植月氏の祖である。新右衛門が森藩の大庄屋を勤め、その後明治まで続いた。
大庄屋として
植月新右衛門は承応2年(1653)の一方村の「山上り」や、延宝7年(1679)の皿川改修工事による広い新田作りに功績があった。皿川改修には下弓削村大庄屋河原善右衛門とともに尽力した。六郎右衛門は元禄一揆の記録を残し、山中一揆が起ると、120名の人夫を連れ、弓や鉄砲などを携帯して、鎮圧に出動する準備をした。澄江は、慶応2年(1866)長州戦争に郷夫隊総取締として従軍した。
大倉家 大倉正左衛門 久米北条郡和田北村 浜田藩(鶴田藩)
大庄屋まで
家伝によれば、遠祖は後白河法皇の近臣の一人平資行という。彼は『平家物語』に出ている鹿ヶ谷事件で美作に配流され、一族は大倉を名乗ったという。神楽尾城主大蔵甚兵衛はこの流れをくむといわれている。 弘化2年(1845)から、大倉正左衛門が南組の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
美作に移った浜田藩は、慶応3年鶴田藩に名を変えた。藩主をはじめ4千人ともいわれる家臣とその家族の生活を支えた領民は大きな負担を強いられた。正左衛門たちは、藩への献金や借金の交渉と返済などの処理に廃藩後まで尽力した。慶応4年、新たに編入される村を早急に決定してほしい旨を幕府に嘆願し、美作5郡の95か村が鶴田藩に編入された。大倉家には大量の文書が残されている。
所在地
古くから垪和郷の信仰を集めた一ノ宮八幡神社がある。
森八神社(安清) 盗難除け、悪疫除けの神様。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
森原神社(安清)
明治41年に鶴坂神社に合祀されているが、現在も毎年甘酒祭などをしている。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)