醫王山 佛教寺(久米南町)

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岡山県久米郡久米南町「醫王山佛教寺」の略歴と沿革
 当山、醫王山佛教寺は和銅3年(710)喜恵上人が開山、肩野部長者乙麻呂が創建した古刹。元明天皇の勅願道場として、東西80町南北100町の地域を賜った。
 元慶3年(879)二十二世、文観上人の時代、陽成天皇の勅願道場として、四十九院建立、近隣に比類なき伽藍美を誇ったが、天正9年(1581)兵火に罹れて悉く烏有に帰した。
 その後再建したがわずか六院だった。慶長9年(1604)津山藩主森忠政が寺領を寄進。堂塔を再建したが、元禄10年(1697)森家が断絶となり、経営の基を失って困難を極めた。
 明治初年まで六院あったが、本堂や仁王門を取り壊して、竹林寺(佛教寺別院)の文殊堂を移して本堂とした。
 現在諸堂の建物は、弘法大師1150年御遠忌を記念し、昭和49年より現在に至るまで、境内諸建物の営繕を行って来た。現在の住職は九十二世である。
 『竹林寺縁起』(永享7年=1435別当沙門良春、筆者宥然)に、「当国一宮、仲山大明神御社敷の本主肩野部長者・喜恵上人に帰依し奉り上人の寺を建立せんとして三百町の別所を開き、元慶3年乙亥の年四十九院を建立、夢想によって佛教寺と号す」とある。(文:佛教寺リーフレットより)(2019年9月8日撮影)

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醫王山 佛教寺客殿・庫裏

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醫王山 佛教寺客殿・庫裏

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護法堂                    客殿・庫裏

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山門                     鐘楼堂

木造金剛力士像(二驅)県指定文化財 昭和55年4月8日指定
 仁王門は昔は本堂の東南二町にあったが、現在は収蔵庫の中に安置してある。向かって右側の阿形像の背部内面左肩に、建長元(1249)年己酉3月の墨書が発見され、県下に現存する唯一の鎌倉中期の力士像として、昭和40年代にわかに重要性を増した。
二驅ともに桧材、寄木造、王眼、彩色、阿形像高295.5cm、面幅32.0cm、足を開き裳の裾を左右に靡かせて右手を上げ、左肩に金剛杵を担う姿の立像。吽形像は総高270.0cm、面幅32.0cm、足を開き右肘を張り、左手に金剛杵をさげた姿の立像で、二驅ともに太目、大ぶりの衣文の彫りが目立つが、迫力ある忿怒相は原作の良さを想像させる。(現地案内板より)

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石造宝篋印塔ー岡山県指定重要文化財
 高さ166cm、石質は花崗岩製、基礎の四面に形のよい格狭間を入れ上端に複弁の反花を刻み、塔身の四面には連座つき胎蔵界四佛種子を月輪内に刻む、笠は軒下に二段の造り出し、軒上に七段の造り出しがあり四隅突起はほとんど垂直に立つ。相輪も原石のままで南北朝造立の姿をよくあらわしている。基礎に次の銘を刻む。
 願以此功徳 普及於一切
 我等興衆生 皆共成仏道
 文和三甲午十月十五日
 大願主磊明敬白

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佛教寺鎮守堂拝殿

佛教寺鎮守社本殿(附天保6(1835)年軒札)県指定文化財 平成19年3月16日指定
『久米郡誌』によると建設年月は不詳、現在のものは、寛文2年再建、安永3年2月、天保6年、明治25年の3回修理と記載されている。八社権現社と呼ばれるこの建造物は、三間社流造り形式、桁行三間×梁間二間、棟高5.07m、屋根は銅葺きで、建物の細部手法には室町時代の特色を備えている。天保6年の棟札に「再興八社宮屋禰葺替云々」とある。何度かの修理を経て今日に至っているが、全体として当初の原形を失っていない。美作地方の数少ない中世神社建築の遺構として極めて貴重なものであると同時に、今日、兵庫県以西にはその例を見ることはない。身舎に直接向拝を付した向拝型の流造り形式として、中世文化の実態とその拡がりを知る手がかりとなる建造物である。久米南町教育委員会(現地案内板より)

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佛教寺鎮守堂本殿(岡山県指定重要文化財 建造物)

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妙見堂・稲荷堂                 文珠堂

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本堂を横から見る                山門を上から見る

バンバ踊 県指定文化財 昭和31年4月17日指定
「白いすげ笠に、して(幣)を切りかけて、バンバとおどれば雨が降る」。これはバンバ踊の歌詞の一節である。美作地方に昊天の続いた寛永13(1636)年〔徳川家光のころ〕、国主森長継は寺内鎮守の龍王祠に祈願して慈雨を得ることができた。そのときの奉謝祭を起源とするもので、男性のみが参加して踊る。(文:現地案内板より)