美作の大庄屋巡り「大倉家 大倉正左衛門 浜田藩(鶴田藩)」

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大倉家 大倉正左衛門 久米北条郡和田北村 浜田藩(鶴田藩) 
大庄屋まで 
 家伝によれば、遠祖は後白河法皇の近臣の一人平資行という。彼は『平家物語』に出ている鹿ヶ谷事件で美作に配流され、一族は大倉を名乗ったという。神楽尾城主大蔵甚兵衛はこの流れをくむといわれている。 弘化2年(1845)から、大倉正左衛門が南組の大庄屋を勤めた。
大庄屋として
 美作に移った浜田藩は、慶応3年鶴田藩に名を変えた。藩主をはじめ4千人ともいわれる家臣とその家族の生活を支えた領民は大きな負担を強いられた。正左衛門たちは、藩への献金や借金の交渉と返済などの処理に廃藩後まで尽力した。慶応4年、新たに編入される村を早急に決定してほしい旨を幕府に嘆願し、美作5郡の95か村が鶴田藩に編入された。大倉家には大量の文書が残されている。
所在地
 古くから垪和郷の信仰を集めた一ノ宮八幡神社がある。

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屋敷・墓地
 屋敷地は、富田家に近い長箱の南向きの斜面にあり、母屋と土蔵が残るが、空き家になってる。墓地は敷地の東尾根にあり、多数の墓石が並ぶ。墓地には、文政6年(1823)大倉又兵衛が建てた石碑があり,両山寺僧侶により「奉直続理趣経一万部塔」と刻まれている。菩提寺は真言宗両山寺(美咲町両山寺)である。
子孫
 明治以後、正左衛門の子左与太は戸長・村長を勤めた。当主は代々歯科医を営み、今は豊中市で歯科医を営んでいる。(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)

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式台の上の家紋                 蔵

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屋敷裏側

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屋敷内の大きな木

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大倉家墓地

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分家の大倉様に案内いただき感謝です。      近くの素敵な古民家カフェです。