一宮街道の道標(下高倉東・下高倉西)
▲後山の伴俊美宅の西側の三叉路に「右一ノ宮 左大たい寺道」、
野村から高倉に入った揚船の四辻に「左一の宮 大たい寺」、後山の伴俊美宅の西側の三叉路に「右一ノ宮 左大たい寺道」、と刻まれた道標があり、この道が一宮街道であつたことを示している。「一宮」は美作国の一宮である中山神社で津山市一宮にあり、遠くから牛馬農耕の守護神として参詣される。「大たい寺」は「美作西国三十三カ所霊場」の第八番雲光山大帯寺で津山市勝部にある。2013年12月11日取材
▲後山の伴俊美宅の西側の三叉路に「右一ノ宮 左大たい寺道」、
野村から高倉に入った揚船の四辻に「左一の宮 大たい寺」、後山の伴俊美宅の西側の三叉路に「右一ノ宮 左大たい寺道」、と刻まれた道標があり、この道が一宮街道であつたことを示している。「一宮」は美作国の一宮である中山神社で津山市一宮にあり、遠くから牛馬農耕の守護神として参詣される。「大たい寺」は「美作西国三十三カ所霊場」の第八番雲光山大帯寺で津山市勝部にある。2013年12月11日取材
縁起、本尊の阿弥陀如来は遠く千四百余年の昔、佛教伝来の砌り、百済の聖明王献じた佛像を蘇我蝙蝠の臣に賜いしものと作陽誌等の古文書に記す。蝙蝠の臣蘇我を改 めて田口氏と為し、貞観年中美作の地上田邑に寺院を建立、阿弥陀寺と号す。正平十八年、田口薩摩守光政によって堂宇の修造が加えられ、光政亡き後、姓氏を 以って田口山とし、法名引乗寺殿を以って寺号改む。永禄年間、戦乱の災に本尊阿弥陀如来損傷を被る。故に像現本尊の肚腹内に蔵すと伝う。(美作八十八ヶ所霊場HPより)
堀井会館から西になだらかな坂道を行くと、家並みの途絶えた左手前方に、真新しい鳥居が見え、開けた所に樫風呂様の社がある。かつては大きな樫の木があったが、その下に広い風呂のようにくぼんだ所があり、堀井組合ではここでお籠りをしていた。その後方に白壁の阿弥陀堂が見える。ここは「本尊薬師如来 苫勝第七番霊場」となっており、堀井では昭和30年代まで、巡礼にくるお遍路さんの接待をしていた。阿弥陀堂が老朽化したため、堀井組合で浄財を出し合って、平成8年に改築し今もねんごろに祀っている。
東谷の香山太郎宅の前の坂道を東に越すと、近平井手のほとりに御影石の石碑が建っていて、正面中央に「奉日書寫般若心経一千巻供養塔」右に「天明七丁未歳十月十五日始」
左に「寛政二庚戌暦六月十七日迄」と刻まれている。裏面には「一天太平四海静謐風雨順時五穀豊登萬民快樂殊者信心之願主」と願意を記し、「上高倉村住人香山清志謹言」とある。また両側面には、四国八十八箇所霊場を回り、当国三十三所に書写した普門品(観音経)を納めたことが記されている。
上塩池の北の近平用水(ちかひらようすい)路の土手下に一体の石仏が祀られている。慶長8年(1603)に書かれた善応寺縁起(東作誌)に高倉県の33か所の霊場の一つとして下高倉村石仏の地蔵堂が記されていて、お堂に納められた石のお地蔵さんとして多くの参詣があったものと思われる。水田の構造改善事業のために移設され、昔の位置は定かではない。(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)
下高倉東公会堂の東真向いの山すそにお大師堂がある。古くからこの場所には苫勝霊場第3番札所の大師堂(本尊 聖観世音・薬師如来・弘法大師)があって、戦前の霊場巡りが盛んな頃は、甘酒などを振る舞い賑わっていた。
平成2年に下高倉東全戸からの浄財によって改築し、有重(ありしげ)にあった苫勝霊場第52番札所の観音堂(本尊 十一面観世音・伝教大師)を合祀した。堂内には二つのお堂の本尊が安置されている。
広域農道の宮東バス停留場の東の堀切に架かった陸橋の北側に毘沙門天堂がある。古くは現敷地の南側にあったが、広域農道工事のため昭和49年4月現位置に新築移転した。
このお堂は「寄松山多聞寺が焼かれた後、北之坊因明であった芦田新介が、焦土と化した境内の一隅に一宇(いちう)を建て、毘沙門天の仏像を安置して守護本尊とし、崇拝祭祀した」と伝えられている。建立は室町時代の嘉吉(かきつ)年間(1441~1444)、建っている場所は寄松山多聞寺(きしょうざんたもんじ)北之坊があったところと推察できる。
2013年2月3日(日)取材
福井の土居地区に、新宮城とかかわって、古い伝承をもつ歴史的にも貴重な観音様が現存している。場所は、火のかま古墳の南、谷をへだてた通称山田といわれる林の中の墓地群の一角にある。ブロックに囲まれた倉庫風の観音堂に安置されており、人よりも大きい、お堂にふつりあいな立派な十一面観音様である。
神宮山木下伝記によると、この観音様は、現福井八幡宮のできる以前に、その他に建立されていた宝昌山正伝寺ゆかりの本尊様と記されている。
そもそも、八幡宮の前身宝昌山正伝寺は、新宮城ができたとき、清瀧寺地鎮和尚の勧めで、城の真東に禍事を払い武運長久を守護するお寺として建立された。その本尊として、清瀧寺と同様の十一面千手観音が、京よりわざわざ仏師を呼び寄せて製作され、長元6年(1033年)盛大な祭祀でもって安置され、以後多数の人々の参詣で賑わっていた言う。
ところが、新宮城が落城した翌年の文治元年(1185年)、縁日の法要のさなか正伝寺が誇る五重の塔より出火し、お寺が全焼する大火となった。危うく本尊の観音様も焼失しそうになった時、熱心な信者により救われたと言う。
以下、その伝記の記述である。「宝昌山正伝寺観世音縁日にて例年の法会あり、多くの善男善女参詣の最中 九つ下り、五重の塔の中央火の室より突然出火してにわかに燃え上がる。衆人驚き消さんとすれど宝昌山には水乏しければ防ぐ便なく瞬く間に本堂に燃え移りたり。土居平の中に長く仲間奉公して居りたりし岡西喜六と呼びなす者、常に観世音に信心して今日も参詣し居りしに出火に驚き、尊き観音様を焼きては恐れ入ると、直ちに本堂に飛び込んで応援の諸人と厨子を担ぎ出し、暫して土居の畝へ持ち来たり菰を敷いて其の上にも菰をかけて当分雨露をしのぎ、その後粗末なる堂を建立し安置し奉り信仰するところより、霊験あらたかなれば平中の者も追々信仰し~明治維新の神仏混合引き分けの達しにて、西の丘の現在地に移転さられたり。なお、表柱の突石は、正伝寺の突き石にて蓮華形あり。」
誕生寺由来 (2012年11月18日取材)
誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。
爾来九百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている法然上人(圓光大師)二十五霊場の第一番。
境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。(資料提供:美作之国 誕生寺)
天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)
大宝元年(701)頼観上人の創建で、本尊は観世音菩薩である。当初は南方の山頂に在ったが、天永元年(1110)現在地に移り、大いに発展して百廿十坊と言われた。
古来、山岳仏教の道場として、又、庶民信仰の霊地として栄えた。長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)である。降って江戸時代になると、津山藩の祈願所として、尊ばれ、又、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であった。山内寺院のうち、遍照院・仏性院・梅元院の三院が院内頭であったが、今では皆、合併して本坊一ヶ寺となった。現在の境内地は四千二百坪、十余棟の堂塔伽藍は、昔に変らぬ面影を伝えている。
国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)
県指定文化財、常行堂(1519)、御霊屋(1652)、仁王門(1686)、長屋(1845)、宝筐印塔(1399)、鬼面(1362)、六角型舎利塔(1344)、絹本著色両界曼荼羅図二幅(鎌倉末期)
美咲町教育委員会 (案内板より)