頼久寺(らいきゅうじ)庭園 (高梁市)

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頼久寺由来
天柱山安国頼久禅寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。後に永正年間(1504年)松山城主上野頼久公が大檀越となり寺観を一新し大永元年逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。 尚、当山御本尊は、聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された瀬戸内観音霊場第十三番の札所である。(2016年4月23日取材)

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頼久寺正面

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山門

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境内

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客殿                      

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境内

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境内

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暦応二年(1339)足利尊氏が安国寺として建立した禅寺である。特にその庭園は有名で小堀遠州の築庭と伝えられる蓬莱式枯山水庭園(鶴亀の庭)で江戸初期の庭園としてはわが国を代表するものの一つである。

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立派な欄間に興味津々でした。

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木堂さんの書がかかっています。

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庭園
慶長5年(1600年)小堀新助正次が、備中国に一万石余を領したが、慶長9年に逝去したので一子作助政一(遠州)が遺領を継いだ。その頃の松山城は備中兵乱後で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、またよく本寺を外護され、元和5年(1619年)までこの地にいた。本庭園はその頃の遠州の作庭になるもので、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。

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頼久寺庭園は、さつきが咲く頃が有名

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鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。又、山畔のサツキ一植の大海波を表現する大刈込 みは、園内最も優れた美的景観を示している。

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このような築庭様式は、桃山から江戸初期に好まれたもので、現在までの旧態のまま保存されていることは、歴代 城主の帰依の念驚きことと、歴代住職の愛山の念深きことによるものであって、遠州作庭中の傑作庭園と称せられており、昭和49年国の名勝(庭園)に指定さ れた。

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尚、自筆の禁札他遺愛品数点が保存されており、別に暦応2年12月西念勧進による石灯籠がある。

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小堀遠州(1579年~1647年)
天正7年(1579年)近江国小堀村に生れる。幼名を作助といい、長じて政一と称した。父に逝去後、松山城を預かり備中の国政を司る。茶道、建築、造庭の巨匠として名を馳せ、駿府城普請奉行を務め、従五位下遠江守に叙任された。以後遠江にちなんで遠州と通称された。備中松山城を再建し、他に名古屋城天守、後陽成院御所造営等の作事奉行を務める。幼少から茶道に励み、宗甫、孤篷庵と号し「きれいさび」を確立、後世に多大な影響を与えた。
正保4年(1647年)卒す。世寿69才。(文:頼久寺パンフレットより)