天王寺公園(東一宮)
2020年3月25日の晴れた日、東一宮にある天王寺公園まで行ってきました。
天王寺公園は一宮公民館の隣にあります。3月のまだ肌寒い日でしたが、広いグラウンドではグランドゴルフを楽しむお元気な年配者の方々がいらっしゃいました。グラウンドの周りに配置された遊具の中で木で作られた少し変わった滑り台が印象的な公園でした。
2020年3月25日の晴れた日、東一宮にある天王寺公園まで行ってきました。
天王寺公園は一宮公民館の隣にあります。3月のまだ肌寒い日でしたが、広いグラウンドではグランドゴルフを楽しむお元気な年配者の方々がいらっしゃいました。グラウンドの周りに配置された遊具の中で木で作られた少し変わった滑り台が印象的な公園でした。
2020年6月17日の津山市井口にある長法寺のアジサイの花です。
今年のアジサイのイベントは新型コロナウイルスの影響で中止になりましたが、それでも続々とお客様がアジサイの花を見学に来られていました。まだこれから次々と咲き誇ると思いますので是非どうぞ。
(あじさい祭【長法寺】2010年6月19日のイベントの様子)
現在、津山郷土博物館の前に、「左・出雲」、「右・京大阪、左・一ノ宮」、右・出雲」、「明治16年8月建之、坪井町」と刻まれたあ石碑が建てられている。この石碑の文字はもう少し続くが、埋められているためこれ以上判読することはできない。この道しるべについて、今井三郎さん(故人)は『津山坪井町の歩み』の中で次のように取り上げている。
「坪井町一番地の東南の角、道路に沿って大きな津山石製の道標があった。いまは撤去され、津山郷土博物館に保管してある。高さ五尺(約1.5㍍)、幅九寸(約27㌢)の四角柱形の立派なもの。文字は赤松寸雲先生。時代のずれと舗装道路改修で廃棄された。文字は"右・京大阪、左・一ノ宮""右・出雲街道""明治16年8月建之、坪井町、志茂意平、田口半治郎、片桐秀吉"とある」
ヨーロッパにつたえられた津山
17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)
井口公園(津山市井口25-2)は、 津山市立養護老人ホーム ときわ園がすぐ隣にあり、神南備山の麓に位置する静かな環境の公園です。また、アジサイで有名な長法寺や、公益社団法人津山市シルバー人材センターも近くにある広々とした公園です。グラウンドが広くてサッカーや野球をして楽しむことが出来そうです。(2020年4月9日撮影)
天台宗 岩間山本山寺(いわまさんほんざんじ)は、長承元年(1132)稲岡ノ庄(誕生寺)の漆間時国公夫妻が参詣、祈願して生まれたのが、後の浄土宗の宗祖と仰がれる法然上人(源空)です。江戸時代になると、津山藩の祈願所として尊ばれ、森候の時代には、美作の天台宗の触れ頭であったといわれています。また、境内には沢山のシャクナゲが植えられています。(2020年5月17日・23日撮影)
鴨川公園(津山市高野本郷1620-2)は元津山市立鴨川(おうせん)中学校跡地にある公園です。(1976年鴨川中学、国分寺中学および東中学の一部と統合し津山市立津山東中学校へ)鴨川公園へ伺った時には丁度桜の花が満開で、建物は鴨川中学の跡地に建てられた雇用促進住宅を経て現在はビレッジハウスになっていました。(2020年4月6日撮影)
南児童館の前にある西海寺公園(津山市横山26-2)は、津山駅の近くにあり、駅の様子がよく見える静かな環境の公園です。遊具も沢山そろえてあり、子ども達のはしゃぐ声が聞こえてきました。(2020年4月9日撮影)
枡形城の繁栄した年代に創始されたと言われ、以来400年以上踊り続けられている盆踊りがあり、毎年7月23日が祭日である。『天正年間(1573~1592)に枡形城が築かれたときに新町が作られて、戦国時代の生々しい戦いと混乱の世相に仏の慈悲を念じ、この地に地蔵堂が建設された』と伝承されている。
棟札によると、
宝暦4年(1754)5月改築 天明5年(1785)改築
明和2年(1764)円通寺住職「龍盁」の名をもって燈明料として、白米6斗5升が寄進されている。
島田家 島田太郎兵衛 西々条郡院庄村 森藩
大庄屋まで
島田氏は、鎌倉幕府の役人としてこの地へ移り、代々太郎兵衛を名乗ったといわれる。美作一国の領主となった森忠政は構城の築城にあたり島田家に居住し、忠政の子忠広は島田家で生まれている。
島田家は元禄10年(1697)まで4代大庄屋を勤めたが、5代目は幼少であったため、後見役を勤めていた江川四郎左衛門が森藩改易後、大庄屋に任命された。
大庄屋として
慶安元年(1648)布原台地の開発に関わった。