鴨川公園(高野本郷)
鴨川公園(津山市高野本郷1620-2)は元津山市立鴨川(おうせん)中学校跡地にある公園です。(1976年鴨川中学、国分寺中学および東中学の一部と統合し津山市立津山東中学校へ)鴨川公園へ伺った時には丁度桜の花が満開で、建物は鴨川中学の跡地に建てられた雇用促進住宅を経て現在はビレッジハウスになっていました。(2020年4月6日撮影)
鴨川公園(津山市高野本郷1620-2)は元津山市立鴨川(おうせん)中学校跡地にある公園です。(1976年鴨川中学、国分寺中学および東中学の一部と統合し津山市立津山東中学校へ)鴨川公園へ伺った時には丁度桜の花が満開で、建物は鴨川中学の跡地に建てられた雇用促進住宅を経て現在はビレッジハウスになっていました。(2020年4月6日撮影)
南児童館の前にある西海寺公園(津山市横山26-2)は、津山駅の近くにあり、駅の様子がよく見える静かな環境の公園です。遊具も沢山そろえてあり、子ども達のはしゃぐ声が聞こえてきました。(2020年4月9日撮影)
枡形城の繁栄した年代に創始されたと言われ、以来400年以上踊り続けられている盆踊りがあり、毎年7月23日が祭日である。『天正年間(1573~1592)に枡形城が築かれたときに新町が作られて、戦国時代の生々しい戦いと混乱の世相に仏の慈悲を念じ、この地に地蔵堂が建設された』と伝承されている。
棟札によると、
宝暦4年(1754)5月改築 天明5年(1785)改築
明和2年(1764)円通寺住職「龍盁」の名をもって燈明料として、白米6斗5升が寄進されている。
島田家 島田太郎兵衛 西々条郡院庄村 森藩
大庄屋まで
島田氏は、鎌倉幕府の役人としてこの地へ移り、代々太郎兵衛を名乗ったといわれる。美作一国の領主となった森忠政は構城の築城にあたり島田家に居住し、忠政の子忠広は島田家で生まれている。
島田家は元禄10年(1697)まで4代大庄屋を勤めたが、5代目は幼少であったため、後見役を勤めていた江川四郎左衛門が森藩改易後、大庄屋に任命された。
大庄屋として
慶安元年(1648)布原台地の開発に関わった。
美作の田口氏=云い伝えによれば蘇我蝙蝠臣の末、田口朝臣房富二十一世の孫田口重如當國苫田郡を領して田野村に瑞雲山を建立す。その子光益、大和國髙市郡を領し、その子左衛門尉光政、小吉野庄を領してて北髙田に城を築く。また、田野邑に田口山引乘寺(正明寺)を建立す。建武以来山名時氏に属して作州を平定し應永二年三月七日卒したり。なお、山名坊菴入道忠政の女(守護代鶴山城に居る)、虎御前は田口薩摩守光政の室なりと伝わる。
光政の一子紀重藤は、天正十七年に備中松山城を攻めて庄蔵人を討伐せし功により、勝南郡南分吉留村を領し、光政の二男忠光は父の跡を継ぎ北髙田に居城す。忠光五世の孫田口彦兵衛光正に至り、大内義興を助け、その子志右衛門尉重光は尼子晴久に属し、天文年中各地に転戦したれど、のち毛利氏に随いて宇喜多勢と戦いたり。その後大蔵甚兵衛尚治と謀りて志戸部の出城を潰滅させたれど、その子藤左衛門益重に至り、天正七年神楽尾落城して宇喜多氏に降りたりという。このほか「東作志」に「勝南郡公文庄重藤邑庄屋田口庄七」記載さる。(文:『田口一族』より)
令和元年5月4日、令和最初の「矢筈山登山会」が開催された。(矢筈城の概要は⇒こちら)
参加者38名。遠く大阪市、鳥取市内からも参加する方がおられた。
開会式、安全祈願のあと、意気揚々と登山を開始した。(この記事は2019年5月4日の登山会の記録です。)
明徳山上野寺は、天平年中に行基菩薩が一刀三礼により、本尊を勧請し、一宇を創建したと伝わるお寺です。昨年、高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場巡りに出かけたとき、来年は花が咲くころに再度伺うと約束していましたので訪問してきました。昨年より少し早かったのですが来てみるとキクモモ(菊桃)は満開で真っ赤に咲いていました。また、境内のシャクナゲがとても綺麗に咲いていました。
岡山県美咲町にある岩間山 本山寺の境内にはシャクナゲの花が沢山植えられています。毎年、訪れるのですが、今年は4月11日と少し早めに伺ってきました。2013年5月2日分と併せてご覧ください。
本山寺は、江戸時代津山藩の祈願所として尊ばれていた寺院で法然上人ゆかりの地でもあります。現在の境内地は4200坪と広く、十余棟の堂塔伽藍は昔に変らぬ面影を伝えています。また、国指定文化財、本堂(1350)、三重塔(1652)、宝筐印塔(1335)があります。
(岩間山 本山寺 法然上人ゆかりの地、2012年11月12日取材)
出雲街道は、徳川時代に参勤交代の諸大名が、華々しい大名行列の絵巻物を繰り広げた道筋であり、その昔は官道と呼ばれ、都から石見・出雲地方に文化を運んで作州を東西に貫いた重要路線であった。
また、この道筋は、元弘の乱(1331年)には、後醍醐天皇が北条高時のために至上の御身を、遠流の鳳輦に委ねられ、隠岐の狐島に遷幸の砌、史蹟をとどめられた哀史の道でもある。
元弘の乱後(1332年)、後醍醐天皇は播州今宿より杉坂峠を越えて梶並川の東岸「火の神」の渡し場に着かれた。この渡し場から川を渡り、渡里・上相を経て、岡の高塚山南麓の丘上に、間山の高福寺の寺領であった草庵を仮の行在所と定められ、仮寝の夢を結ばれたということである。
翌朝、天皇は行在所をご進発にあたり、その南にある池畔の野橋の上に、暫くご駐輦になり、幾度かの敗戦に、おやつれになった龍顔を、池水に写された。
この古事を伝えて、後にこの橋を「姿見橋」と名付けたとされている。
この橋は、昭和47年の構造改善事業のために取り壊されたが、後醍醐天皇をしのび、史蹟碑が建てられ現在に至る。(木村増夫著 『勝央今昔滝川のほとり』より)
平成9年4月 岡地区史蹟保存会
城西地区にある「城西児童公園」の八重ザクラが満開でした。
この公園のすぐ近くには西寺町界隈があり、国指定重要文化財の本源寺や宗永寺などがあります。
嘗ては藺田川(いだがわ)に沿って沢山のさくらの木が植えられていて、満開になるととても美しい桜並木でしたが、数年前に整備されて今では本数が少なくなってきました。