美作の大庄屋めぐり「土居家」(東田辺)

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土居家 土居藤七 西北条郡田辺村 森藩~松平藩
大庄屋まで
 田辺村土居家は、田邑土居家の分家である。田邑村七郎右衛門の三男伊右衛門が、寛文12年(1672)に田邑村に居住したまま田辺触の大庄屋に任命され、田辺触として、6か村石高2489石を所管した。伊右衛門は天和元年(1681)田辺村に移住し、同3年伊右衛門の死去により、河辺村土居家にいた弟の七衛門が名を藤七に改め、2代目となり大庄屋を継いだ。
大庄屋として
 藤七は、元禄11年(1698)、美作国に10万石で入封する松平家に大庄屋及び領民を代表して香山太郎兵衛とともに江戸まで祝賀の挨拶を行っている。藤七は、東一宮中島氏とともに第一次長州戦争に従軍した。『美作の大庄屋、大年寄記』屋号を中屋という。

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所在地
 田辺村は、古代の苫田郡田辺郷に由来している。宮川の支流鵜ノ羽川の中流域にあって屋敷の前を津山から伯耆への伯耆往来が通る。
屋敷・墓地
 屋敷は、黒沢山南西山麓の高台にあり、村内を一望できる。現在は萱葺の母屋が残るが無住である。墓地は屋敷裏の山林にある。菩提寺は真言宗萬福寺(津山市東田辺)であった。
子孫
 土居通正は大庄屋を免じられたあと、郡書記官に任命され、その後、当地の村長を歴任している。その子修治は山陽中央水電(後の中国電力)に専務として勤務、電気産業の発展に貢献した。明治になって通正は神道に、修治はキリスト教に改宗している。現在、子孫は神戸に在住している。

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竹藪に覆われて道からは見つけることができにくくなっています。

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隣の家の方が屋敷まで案内してくださいました。

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屋敷のすぐ前には道があったそうです。      石垣が見えます。

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屋敷地から見る見晴らしの良い景色です。

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近くに津山元標があります。(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)(2020年2月4日撮影)