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取材記事内を検索ワード「はな」で検索した結果,458件の記事が見つかりました。

DE50形ディーゼル機関車

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 1970年(昭和45年)に国鉄が日立製作所笠戸工場にて製造したディーゼル機関車です。 本形式は津山扇形機関車庫に保管される1両しか製造されていません。
 当時既に大量配備されていたDD51はディーゼル機関を2基搭載することによる 保守費用の増加の問題を抱えいた他、重量の問題で支線区での運用にも制限がありました。 また、支線区用として開発されたDE10は出力が小さく、速度面の問題がありました。 これらの問題を解決するため、 "DD51の代替・後継となり得る出力"と"DE10のように 支線等でも運用できる重量及び高い保守性"を両立した、 最強の純国産ディーゼル機関車の開発がスタートしました。そして誕生したのがこのDE50です。

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平成30年(2018)初日の出 in 牛窓

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 2018年元旦の初日の出は牛窓でゆっくり拝もうと思い行って来ました。初日の出は「元旦に改まった気持ちで見る朝日」、ご来光は「高山で望む荘厳な日の出」という意味で何も元旦だけのものではないそうです。
 日本のエーゲ海とも言われる牛窓。しかも目の前が海の「ペンションくろしお丸」。温かいお部屋から初日の出を拝む大層贅沢な元旦を過ごしてきました。

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天守にある「常用の井戸」

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お城の井戸
 雨上がりの津山城跡を訪れた時、石垣から大量の水が噴き出しているのを見かけた。その場所は裏中門南桝形南面の石垣である。津山城跡の中で唯一岩盤が観察される場所である。北斜面の地形を削平し桝形を造出しているが、この時、南石垣面で高さ約1メートル程度にわたり岩盤が削り取られている。石垣はこの岩盤の上に直接積まれており、地下に浸透した雨水はこの岩盤面をつたって石垣から噴き出していたのである。これを見て、丘陵の頂部に位置する本丸の井戸にも水が溜まるということが理解できた。

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【津山人】田中富三郎(加茂町)

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 1868年(明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。万年筆業界の先駆者で「田中大元堂」を経営。加茂西小学校に図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与される。サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争と日露戦争で数々の危難をまぬがれ、サムハラ大神の霊徳を世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立。神前扉材は伊勢神宮より賜った。戦時中に兵士にお守りを贈る活動をしていたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に配布していた。多くの要人にも贈呈をした。90歳までは自転車を乗り回すことも平易だった。97歳の時でも壮健であり自らを青年と称した。「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱。毎朝参拝を欠かしたことはなかった。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。(文:ウィキペディアより)

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津山市田熊字福本のなぞの石碑

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 私が長年気になっていた事で私の代に解決しておかないと誰も解らないままになると思い、里の家前の安藤きしこさんに力を借りて調べる事にしました。子どもの頃、父に連れられて行っていた「たばこ畑」のすぐ下に、椿の木と一緒に祠があったような気がします。(椿と石と石の間に祠があった?ような気がしていました。)今となっては、何年も祀られていない上に、椿の木は大きくなり、藤の木が覆い茂り、字も風化されて解りません。ただ、前の安藤きしこさんに聞けば、野田の人が多く参られていて、ここにお参りした後に岩黒城跡お大師様におまいりして、また帰られていたと聞きました。そして、上り口には石の段々があった。道の反対側には茶店があった。(現在は安藤きしこさん宅の畑になっている)。そして、この山が寺山と呼ばれていたそうです。

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日詰山頂上の大きな木(加茂町)

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加茂の金刀比羅神社やサムハラ神社奥の宮の鎮座されている日詰山のてっぺんに生えているこの木は遠くからでもよく目立っています。この日詰山頂上の木は「楠」で、樹齢不明だそうです。また、地元の方にお尋ねしたところ「展望台そのものは平成12年に、当時の金刀比羅神社の総代長の発案でできたものであり、目的は展望の良さを皆に知って貰いたかったからと聞いている。戦国時代には、あそこには百百城(別名;落合城。秀吉側)があった。そして、毛利勢の髙山城(矢筈城)や川下の津山方面、倉見川方向の谷筋を一望することが出来る最良の場所であったであろう。」とのことでした。(2017年11月23日撮影)

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衆楽園の「皇太子殿下御手植松」のなぞ。

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 衆楽園の門を入るとすぐ正面に見える大きな松の木があります。その松の根元に「皇太子殿下御手植松」の石柱があります。明治36年10月18日なので、おそらく大正天皇の事だろうと思いますが、行くたびに気になっていたので、お国自慢の皆さんにお聞きしましたら、どうやらこの松は二代目の松でしかも日本古来の松ではないそうです。御手植松はあったのだろうか、詳細な事は解りません。また、皇太子殿下御手植松なら名誉なことなので、苫田郡誌など書き記したものがあるはずだけど、何も記録がないと首をかしげる人もいらっしゃいました。衆楽園の七不思議のひとつだそうです。(撮影2017年6月19日)

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【津山人】浅本鶴山 -放浪の陶工-

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 放浪の陶工、鶴山は明治18年(1885年)津山に生まれ、2歳のとき、林田で開窯していた浅本房吉(旧姓杉崎)のもらい子になった。高等小学校卒業のころのちょうど13歳のとき、当時津山市二宮の窯へ移っていた父房吉から轆轤の手ほどきを受けたという。以後、淡路の眠平焼に行って修業を積み、さらに、兵庫県出石の「シケ場」へ。その後、伊部、明石の朝霧焼、稲見へ次から次へと、それこそ、轆轤一丁肩にかけ、ひょうひょうと、渡り歩くこと約十数年。しかも、その間、京都陶器試験場の場長の藤江氏の世話になったり、また、陶器学校で三年ほど仕事をしたりした。
 明治44年(1911年)静岡県の賎機焼に行き、そこに腰を据えて約20年仕事をした。もっとも、その間、たびたび津山に帰ったし、また、昭和10年(1935年)には、福岡県赤崎焼へも行っている。二十五歳のころ、赤磐郡佐伯町から嫁をもらった。一応幸福な中年期を過ごしたが、突然、子どもが病死し、続いて妻も失い自暴自棄になった。

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『太平記』の物語からできた作楽神社と児島高徳

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「太平記」と児島高徳  児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
 児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
 これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
 明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。
 学者のなかには、高徳は、『太平記』の作者のつくりばなしであるとか、『太平記』の作者ではないかという人もいれば、瀬戸内の海の武士団であったなどさまざまな見方や意見がありました。『太平記』に何か所も記述されている高徳は、何物であったのでしょうか。
 近年は、地域の歴史が見なおされ研究がすすんできています。関連した人物の資料やさまざまな史実から高徳は、実在の人物であったことがはっきりし、児島あたりの山伏をひきいる忍びの頭であったと、されています。

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【津山人】浮田佐平(1867-1939)

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 浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
 父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
 母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。 
 浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
 大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
 それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。

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