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取材記事内を検索ワード「秋」で検索した結果,492件の記事が見つかりました。

元魚町の古称刻む徳守神社境内の石灯籠

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 慶長九年(一六〇四)、森忠政は徳守神社を城下の総鎮守として、築城と城下作りに取りかかったといわれる。以後、徳守さまと呼ばれて津山の人々に親しまれ、今も津山祭の中心として秋祭はにぎわう。その境内の北西の角、住吉神社の前に高さ約二㍍の二基の石灯籠が立つ。すっきりしたデザインは風格を感じさせる。左側の石灯籠に「寛文四年(一六六四)辰九月十九日古魚町」と刻まれる。右側の石灯籠には「寛文四年(文字が消えかけているが、間違いないと思われる)辰九月十九日二丁目」とある。
 寛文四年は津山城が完成した元和二年(一六一六)から四十八年後。森藩が徳守神社北側の武家屋敷の一部を町家にして、宮脇町と名付けた明暦元年(一六五五)よりも九年後。この時期に、藺田川以西の町も城下に編入されていった。城下の町々が整い、発展を見せていた時期といえる。二基の石燈籠はそうした時期に、隣接する古魚町(元魚町)と二丁目が協力して町の発展を願い、寄進したのであろうか。森藩時代の町々の記録が少ない中で、この石燈籠に刻まれた二つの町名は当時を窺わせる貴重な資料の一つと思われる。二丁目と元魚町の中では最も古い記録である。

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百済市良右衛門 -作州鋳物の伝統五百七十年ー

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 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。

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慈恩寺のタラヨウ(モチノキ科)

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慈恩寺のタラヨウ タラヨウ(モチノキ科) 所有者/慈恩寺
推定樹齢/250年 目通り周囲/2.4m 樹高/25m
 久米町桑下の国道429号線と県道久米中央線が交差する地点の南の山の中腹に慈覚大師開創と伝えられる古刹慈恩寺があり、本堂左奥に本樹がある。
 タラヨウは近畿地方以西の暖地の山地に生えるが、多くは庭園に栽培される。本樹は雌株で秋から春にかけて紅色の実をつける。(津山の名木百選)(2017年7月1日撮影)

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宇田川興斎旧宅跡(北町) 

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宇田川興斎旧宅跡 未指定(史跡) 北町8番地の7 
 津山市北町の城北橋の西詰の一角に津山市教育委員会が建てた解説板がある。ここが箕作家と並ぶ津山洋学のもうひとつの柱、洋学者宇田川家の四代目宇田川興斎の屋敷であったところである。この場所は、土地所有者本島大道より津山市が寄贈を受け、平成9年10月に整備された。興斎は文久3年(1863)から明治5年(1872)までのあしかけ11年間津山に住んでいた。この北町の屋敷の後、林田町に家を借りて住んでいるが、その場所は不明である。当時は明治維新前後の激動の時代であり、津山にいる間、興斎は東奔西走し、公私ともに多忙な日々を過ごした。

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2017年8月 新しくなった津山駅北口

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 2017年4月1日、津山駅北口広場が新しくなり、公共交通の乗り換えも便利になりました。まだ、若干周辺の一部では工事がなされていますが、車での送迎も便利になりました。箕作阮甫像も、SLのC11-80号も移設が完了しました。まだ、これから53号線の道幅も広くなり、にぎわい交流館も出来るらしく工事が急ピッチで進んでいます。(2017年8月11日撮影)

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2017年8月13日のイナバ化粧品店内。

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2017年8月13日のお盆の日です。津山は、日中暑いけれども時折涼しい風もあり、少しは過ごしやすくなっているかな?と感じます。また、朝晩は幾分涼しくなっており、ヒグラシが泣いて秋の気配が感じられます。
 今日の店内は、お盆の連休もあって沢山のファンの方たちで店内は混雑しておりました。その中で「あっ!津山瓦版!」と声かけてくださいましたお馴染みのファンの方と遭遇。覚えていてくださってとても嬉しかったです。

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津川神社(通称名 三浦八幡神社)

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 由緒沿革:本神社の創建は古老の伝えによると、元禄十四年である。慶応年間火災に罹(かか)り社殿は悉(ことごと)く消失した。社号は三浦八幡宮と号した。その後社殿の再建を計り、明治六年二月村社に列格した。
主祭神:品陀和氣命、例祭:十月十四日、境内地:百三十九坪、主要建物:本殿・幣殿・拝殿・社務所、摂末社:荒神社(中山神社・愛宕神社・子安宮)、氏子数:八十四戸、宮司:湯浅祐次、責任役員:山本光雄・山本雷太郎(文:岡山県神社誌より)


 大正4年下津川の箸蔵神社、塞神社、愛宕神社、滝神社を合祀した。
主な祭典:春祭り、四月(第二日曜日) : 夏祭り、七月(第二日曜日): 秋祭り、十月(体育の日)
(文:神社庁HPより)(2014年1月7日、9月26日取材)

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昭和38年~平成4年頃の元魚町商店街

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 銀天街や元魚町でまちづくりに関わってきた出口剛三さんからお話をお聞きすると、「なぜ早くから県北に商店街ができたのか不思議だったが、市(いち)としては明治初期の頃からあったようです。その当時は天然痘が流行っていて世の中が暗くなっている時に、少しでも町を明るくしようと、富クジを始めた。それが大当たりしたのが誓文払いのはしりとなった。平成4年頃の商店街には、それぞれの顔があり、元魚町商店街は、古本を集めてフリーマーケット(現在のフリマのはしり)をした。また、一番街はお化け屋敷、銀天街は生けすでうなぎを釣ってもらったり、カブトムシを展示したり、各商店街がそれぞれに抽選会をやった。当時のイベントで今でも残っているのは、幼稚園の子どもに協力してもらった一番街の七夕まつりです。」と教えてくださいました。(協同組合元魚町商店街の設立は、昭和38年7月22日です。)(平成29年7月現在の様子です。)(アルネが出来る前の銀天街の様子

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土人形展 (M&Y記念館)

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2017年6月9日に棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)へ出かけて来ました。全国郷土玩具土人形を収集(約2000点)しておられる杉本耕司さんの集められた人形の一部です。現在杉本さんは、津山郷土玩具愛好会を主催されています。次第に作られなくなった(失われていく)物を土俗文化と位置づけて研究されています。城東むかし町家(旧梶村邸)でも展示されています。(年に数回の入れ替え)


曽我五郎・舞鶴
先年市川海老蔵・坂東玉三郎に依り京都・南座にて公演されました。
江戸末期より長野のリンゴ農家の副業として代々製作せれて来ました。
立ヶ花土人形

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元魚町「お祭り麒麟館」の展示風景

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 元魚町「お祭り麒麟館」の展示風景 グリーンライフ津山元魚町の1階(地域交流スペース)に元魚町「お祭り麒麟館」がある。この施設は協同組合 津山銀天街が管理、津山まちづくり倶楽部、協同組合 元魚町商店街、元魚町町内会、徳守だんじり若頭会が展示協力をしている。(文:元魚町『お祭り麒麟館』案内より)(撮影:2017年6月4日)

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