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取材記事内を検索ワード「門」で検索した結果,738件の記事が見つかりました。

安岡町

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 安岡町は津山城下の西の端となる町で、町名はこの地域から北に広がる丘陵地から名付けられたようです。町並みは寛永年間(1640頃)には成立していましたが、津山城下から外れている場所であるために町民は租税に苦しんでおりました。その後、南海(紀州)から移り住んでいた渡邊藤左衛門義信の命をかけた直訴により、茅町と安岡町は城下に編入される事になりました。その義挙を徳とし祠を建てて神と崇めたのが、義信神社として現在でも安岡町の守り神として町内に祀られています。

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2019 津山城(鶴山公園)の雪景色

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 2019年1月26日・27日と寒い日が続き、朝起きてみると雪が降り積もっていました。
それでも朝10時ごろには道路に積もった雪も溶けて、時折日差しも出てきたので雪景色を撮ってみようと津山城(鶴山公園)まで出向いて来ました。津山城(鶴山公園)では知り合いの方や、観光で来られている海外の方とすれ違いました。雪で化粧された石垣が美しく、また、木々に薄く積もった雪もとても綺麗でした。

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新茅町

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「新茅町は鉄砲町の西にありて1区域をなせり、東北は堤をもって鉄砲町、西寺町に界し西南は小田中村に限る、初め柳土手と称す。森氏流離の民をしてこの地に住せしむ。明治5年壬申戸籍編成にあたり改めて新茅町と称す。」(矢吹正則著『津山誌』)
 町の東端に大正の頃まで遠方よりお参りする人も多かったといわれている普門品観世音菩薩の石仏が在ります。その横に建立の由来は不明ですが、正面に南無阿弥陀仏、側面に五月吉氏と刻まれた墓があり、周囲には五輪塔が並んでいます。

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西今町

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 城下町建設当初は、町場ではなかったのですが、寛文年間(1661~1673)城下町に編入されました。古名を「茅町」といいましたが、編入時に改名したと伝えられています。東側を流れる川沿いの通りを藺田町(湯田まちともいう)と呼び、岡山往来の出発点として繁盛しました。西今町には、翁橋があります。これは、津山城下の西部を北から南へ流れる藺田川に架かる橋で、旧出雲街道筋にあたり東側に西の大番所がありました。翁橋は、国の登録有形文化財で「この建造物は貴重な国民的財産です」と記されています。その西側には、作州民芸館があります。この建物は、大正9年(1920)、旧土居銀行本店として建設されました。外観は正円アーチと直線で構成されるルネッサンス様式を基本にした建築物で、国の「登録有形文化財」になっています。

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作楽神社 古筆感謝祭(神戸)

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 2019年1月14日13:00~、岡山県津山市神戸にある作楽神社の境内に於いて、達筆であった後醍醐天皇と児島高徳にあやかり、古筆感謝祭(筆まつり)が行われました。
地域住民の方々が綺麗に洗った使い古した筆を持参して神事の後、とんど行事と合せて焼却しました。

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安田橋

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 明治八年、東京に師範学校ができ、箕作秋坪が校長になったとき、秋坪は漢学の教授として津山から親せきに当たる大村桐陽(斐夫)をよんだ。この人にまつわることだが、安田伊太郎という津山の一人の青年が東京で雄飛しようと夢を抱いて、明治九年に上京した。しかし東京の風も甘くはなかった。アチコチ歩いて職を求めたが、思うようなものは見つからなかった。持って来たカネは使いはたす。そこで同郷の人、大村先生の門をたたいて、津山へ帰る路金の借用を申し入れたが、風体のよくない二十三歳の青年を見て信用しなかったようだ。一面識もないのだから無理もない。一度、二度、そして三度、大村先生の門をたたいて、やっと三円を借りることができた。こころざし破れて帰郷の途中、一面識もない人に低頭平身して、同国のよしみを訴え、わずかなカネを借りるとは、何とつまらないことか、これではいけない。大いに発奮して働き抜こうと決心した。

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津山藩江戸藩邸

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津山藩江戸藩邸
 江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、江戸と領国の二重生活を送ることになっていました。そのため、大名は江戸に屋敷を拝領し、多数の藩士が単身赴任の苦しさと、大消費都市江戸の享楽の同居する生活をしていました。
 津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄十一年(1698)九月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側に七千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用しました。この鍛冶橋藩邸は後に敷地が加えられ、最終的には一万二千坪ほどになっています。
 江戸の津山藩邸は鍛冶橋藩邸だけではなく、浜町の中屋敷、高田・深川の下屋敷などがあり、それぞれかなりの敷地を有していました。

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平成30年度津山洋学資料館秋季企画展 天を測り地を測る

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 「測量」という言葉は、「測天量地(天を測り、地を測る)」という中国の言葉に由来しているとされ、江戸時代には土地をはかることだけではなく、天をはかる天文学でも用いられていました。
 測量術と天文学は、どちらも古代に中国や朝鮮半島から知識が伝来しました。江戸時代になると、西洋からもたらされた知識や技術を取り入れ、相互に影響を与えながら大きく発展していきます。
 本展では、日本で初めて実測による日本地図を作成し、測量史に大きな足跡を残す伊能忠敬の没後200年を記念し、江戸時代における測量術と天文学の歴史をご紹介します。

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正守の土居家のお墓(下田邑)

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 土居氏は河野氏から分かれた豪族で、河野水軍の系統をひき、伊予の国から西瀬戸内海では相当な力を持った勢力であったようである。南北朝期には南朝方に与して、後醍醐天皇から綸旨がくるまでの力を持っていたようである。その後も地頭領主級の豪族であった。それは河野水軍から出た村上水軍、河野氏から出た土居・得能両氏が力を合わせたことにもよると思われる。婚姻関係を見ても、それぞれ山城の城主、地頭級の家と結ばれ、中には権大納言の息女と結ばれている。311年間続いた土居氏も、長曾我部氏の四国統一、秀吉の四国攻めによって潰されていった。毛利氏を頼って神楽尾城まできたのが、土居の一族である。(文:『美作の中世山城神楽尾』より)
(2014年5月7日撮影)

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龍になった長者の娘『山西の民話』

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 入日長者は、何不自由なく暮らしていたが、ただ一つ子どもに恵まれないのが悩みの種だった。
 長者は神仏に祈った。特にお伊勢様に女房と二人づれでまいり、三、七、二十一日の塩断をして祈願をした。そのかいあったのか、その年、娘の子が授かり翌年男の子が授かった。女の子には伊勢と名前をつけた。 伊勢はキリョウよしで、村中の評ばんの美人だった。大きくなるほど美しさを増した。所々方々から嫁にほしいと申し込みがあった。しかし伊勢は一向に耳をかさなかった。
 十九歳のとき、因幡の国の長者から縁談が持ち込まれた。父も母もこれには心がうごいた。伊勢にこの話をして、いやおうなしに承諾させた。長者の娘のためにたくさんな衣裳を作ってやった。結婚の日取りは三月ときめた。いよいよ鹿島立つ日、一行は長い長い行列であった。美しい衣裳をまとった伊勢は又一段と美しさを増した。伊勢が門口に立つと見送りの人達がいっせいに「ああ美しい」と感嘆の声をはなった。伊勢は駕籠に乗って家を出た。父も母もこれが見納めとは思わず、門口で見送った。

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