平成30年度津山洋学資料館秋季企画展 天を測り地を測る

inou.jpg

 「測量」という言葉は、「測天量地(天を測り、地を測る)」という中国の言葉に由来しているとされ、江戸時代には土地をはかることだけではなく、天をはかる天文学でも用いられていました。
 測量術と天文学は、どちらも古代に中国や朝鮮半島から知識が伝来しました。江戸時代になると、西洋からもたらされた知識や技術を取り入れ、相互に影響を与えながら大きく発展していきます。
 本展では、日本で初めて実測による日本地図を作成し、測量史に大きな足跡を残す伊能忠敬の没後200年を記念し、江戸時代における測量術と天文学の歴史をご紹介します。

2018-10-8yougaku15.jpg2018-10-8yougaku16.jpg

第1章 天をはかる
 現在の日本では、太陽の運行(実際は地球の公転運動)をもとにした「太陽暦」で暦(カレンダー)が作られています。太陽暦が採用されたのは1872(明治5)年で、それ以前は月の満ち欠けを基準にし、それに太陽の運行も加えた作った「太陰太陽暦」が用いられていました。
 暦の作成には、精密な天体観測の積み重ねと、高度な数学の知識が必要です。古代の日本では独自に暦を作ることができず、553(欽明天皇14)年には、朝廷が百済(古代の朝鮮半島にあった国家)に使者を送って暦博士の渡来を要請したことが「日本書紀」に記録されています。
 このように、日本の暦学・天文学は大陸から伝来したもので、その源流は中国にありました。朝廷では、中国の天文学の考え方に基づいて、天文占いや暦作りを掌る陰陽寮が作られました。そして、江戸時代に至るまで、日本では中国で作られた暦がそのまま用いられていました。


 第2章 地をはかる
 「測量」は、中国の言葉に由来しているとされ、古くは7世紀頃から遣唐使を通じて中国の測量術が伝来していました。646(大化2)年には、班田制という中国にならった土地制度が制定され、測量によって地図が作成されます。測量の基準となる、度量衡の制度も開始されました。
 耕地の面積を測ることは統治に不可欠なことで、1582(天正10)年から豊臣秀吉が全国の土地測量を開始(太閤検地)。江戸時代になると、幕府は各藩に国絵図と郷帳の作成を命じます。
 この16世紀半ばから江戸初期にかけての時期に、測量術は大きな発展を遂げます。それを支えたのが中国からの知識です。算盤が伝来したことで、日本における数学(和算)研究が進み、測量術や天文学に大きな役割を果たしました。
 もう一つは、ヨーロッパとの交流によって学んだ西洋の測量術です。これらは「紅毛流測量述」などと呼ばれました。

2018-10-8yougaku9.jpg2018-10-8yougaku11.jpg

伊能忠敬(1745~1818)
 伊能忠敬は、1745(延享2)年、上総国小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町)の名主小関貞恒の第3子として生まれました。母の死により、婿養子だった父は離縁して実家に戻り、忠敬も11歳になると父に引き取られて神保三治郎として成長しました。1762(宝暦12)年、18歳で佐原(千葉県香取市)の伊能家へ婿入りし、名を忠敬と改めました。伊能家は酒造りのほかに運送、金融業などを手広く行なう商家で、忠敬は抜群の商才を発揮して財を為し、名主としても活躍しました。


 1794(寛政6)年に50歳で隠居すると、翌年江戸へ出て幕府天文方の高橋至時に入門。天文学・暦学に没頭します。当時、暦を作るうえで問題となっていた緯度1度の距離を知りたいと考えた忠敬は、長い南北距離を計測するため、蝦夷地の測量を幕府に願い出ます。許可を得て1800(寛政12)年から実施した測量では、非常に精密な地図を作成し、幕府や関係者を驚嘆させました。これを契機に、以降幕府の事業として全国各地の測量を行ない、日本初の実測地図を作成することになります。
 なお、各地の測量を通じて忠敬が算出した緯度1度の距離は、28.2里(約110.75㎞)で、現代の測定値とわずかな誤差しかありませんでした。

inou1.jpg2018-10-8yougaku7.jpg

伊能忠敬の測量と津山
 測量術が発展する中で登場したのが、実測による初めての日本地図を作った伊能忠敬です。忠敬は50歳で隠居した後、天文方の高橋至時に入門して天文学・暦学を学びました。
 1800(寛政12)年の蝦夷地をはじめとし、1816(文化13)年の江戸府内まで、忠敬は17年間、全10回にわたって全国の測量を行ないました。第8次測量の帰途には津山も訪れています。
 忠敬の測量は、当時一般的に普及していた、「導線法」で方位と距離を測り「交会法」により測定値の修正をするという極めてシンプルなもので、精度を保つために「横切り法」を併用し、経度・緯度を測定するために天体観測を行っていました。
 その成果は、忠敬が74歳で没した後、弟子たちの手で「大日本沿海輿地全図」として結実しました。この地図は非常に高い精度を持ち、昭和初期まで利用されました。

2018-10-8yougaku5.jpg2018-10-8yougaku6.jpg


 津山での測量隊の様子を記録
「町奉行日記」1813(文化10)年12月4日
津山藩の町奉行が記した記録。12月4日の条には、伊能忠敬が到着したことや、翌5日に城下の測量を行うことが記されています。 

津山測量時の対応を記録 
「大年寄月番日記」玉置源五兵衛邦明 1813(文化10)年12月4日
津山堺町の大年寄玉置家に伝来した月番日記。伊能忠敬測量隊の来津時には、玉置源五兵衛邦明が大年寄の当役で、町方がどのような対応をしたかが記されています。

2018-10-8yougaku8.jpg

伊能忠敬旧宅(写真中央)と佐原の町並み(文:津山洋学資料館説明より)

2018-10-8yougaku12.jpg2018-10-8yougaku13.jpg2018-10-8yougaku4.jpg

展示風景

2018-10-8yougaku23.jpg

津山洋学資料館(2018年10月8日撮影)