安田橋

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 明治八年、東京に師範学校ができ、箕作秋坪が校長になったとき、秋坪は漢学の教授として津山から親せきに当たる大村桐陽(斐夫)をよんだ。この人にまつわることだが、安田伊太郎という津山の一人の青年が東京で雄飛しようと夢を抱いて、明治九年に上京した。しかし東京の風も甘くはなかった。アチコチ歩いて職を求めたが、思うようなものは見つからなかった。持って来たカネは使いはたす。そこで同郷の人、大村先生の門をたたいて、津山へ帰る路金の借用を申し入れたが、風体のよくない二十三歳の青年を見て信用しなかったようだ。一面識もないのだから無理もない。一度、二度、そして三度、大村先生の門をたたいて、やっと三円を借りることができた。こころざし破れて帰郷の途中、一面識もない人に低頭平身して、同国のよしみを訴え、わずかなカネを借りるとは、何とつまらないことか、これではいけない。大いに発奮して働き抜こうと決心した。

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 鳥取で三ヵ月ばかり働いて津山へ帰り、三円の借金を大村先生の実家へ返済、金物の行商をはじめた。それから自由民権運動が盛んとなったので、自由党美作部に加盟「政談いろは新聞」の発行も手伝った。ところが、十五年十一月二十三日「政談いろは新聞」は発行禁止の処分をうけたので、腹を立てた福井浪二らと共に警察署に抗議した。そのとき興奮して机をけとばすなどして逮捕され、重禁固六ヵ月で入獄、出てから心機一転、牛乳商売を思い立ち、津山で初めて乳業を開始した。当時はバケツのようなもので一軒々々くばり、先方のウツワに一合とか二合という必要に応じて、わけて歩いたようだ。これで一応成功、中鉄布設の期成会をつくったり、町会議員になったり美作銀行の発起人、美作製紙の支配人など大いに活躍、さらに児童の通学の便をはかるため、いまの児童公園前に「やすだ橋」をかけ、鶴山公園に杉二千本を寄贈、戦争で供出されたが鶴山公園に牧原六郎左ヱ門と井汲唯一の顕彰碑をつくるなど、社会奉仕活動をした。上京して苦労したことが、この人の場合は発奮の動機になったわけだ。山下の安田家はキリスト教図書館のところで乳牛を飼っていたとき以来のものである。

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安田橋

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安田橋(文:『作州からみた明治百年上』より)