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取材記事内を検索ワード「お地蔵様」で検索した結果,38件の記事が見つかりました。

日限り地蔵(一方)

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日限り地蔵
 『むかし、皿川に琵琶が渕という渕があった。ここでは、毎年身投げをする人があとをたたなかった。なんとかして身投げをさせないようにしようと相談し村の人たちは、とむらいをしないという立札を立てた。その後は身投げをする人がぱったりといなくなった。喜んだ村の人たちは、そこに、延命地蔵をまつった。人々はいつとはなしに日限り地蔵とよぶように成った。』
ところがこの地蔵が部落の境にあったので、けっきょく二つに分けてまつることにした。
 今の佐良神社のがけ下にあるのが本家で、すこし南の平福の道路ぞいにあるのが分家だといわれている。いつのころからか「日限り地蔵にお願いすれば、子どもがさずかるそうじゃ」といううわさが広まっていった。評判を聞いて、子どものほしい人がつぎつぎにおまいりするようになった。
お祭り当日には、子どもの健やかな成長と交通安全を祈って、ご祈とうをお願いしております。
ー岡山の民話よりー(文:現地説明板より)(2017年9月30日撮影)

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耳地蔵(東一宮)

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耳地蔵 津山市東一宮141-2
 大庄屋の中島孫左衛門は、朝鮮出陣中討ち取った敵兵の耳たぶを斬り戦功の証としたが、軍命によるとはいえまことに哀れなことなので帰国後ここに塚をつくり『耳地蔵』としてその霊を弔った。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)

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かがみ地蔵(東一宮)

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脚、腰の病気に効験ある地蔵菩薩として祀られている。(2017年2月19日撮影)
 以前、東一宮の鳥居公園付近に設置されていたが、土地区画整理事業に伴い現在地に移設された由。
地蔵碑に『右 月本雲祐助』とある。同じような地蔵尊が『南条坂』にもある。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)

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地蔵堂(下田邑)

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津山市下田邑から神楽尾城跡へ上る途中にこのような地蔵堂があります。(・地蔵菩薩御真言 おんかかかびさんまえいそわか ・地蔵様と大日様には水をかけないでください。施主)と木のお札が掲げてありました。(2014年5月6日撮影)

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油地蔵(勝央町 壽福山 東光寺)

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油地蔵(岡山県指定重要文化財)
 字 石佛の土中より堀り出されたもので旧県道沿いに安座していたものを大正14年東光寺山門前に移したもの。花崗岩の上部を舟形におとし佛像を刻んでいる。右手には錫杖、左手に宝珠を持つ延命地蔵の相で重厚の感じの像容である。
 左に「庚暦二庚申二月二十九日亥午後」(1380年)右脇に願主円佛敬白の銘がある。油をかけると如何なる難病にも御利益があると云われその為、油地蔵と呼ばれている。
 県内外からの参拝者も多い。昭和34年1月13日、県の重要文化財として指定される。

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こけ地蔵(津山市小原)

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この地蔵の由来
 この石仏は昔から小原、一宮街道に常に転んでいるので「こけ地蔵」と呼ばれて悪病除のご利益もあって、小原の名物となっている。
 且っては若者達の力試しの為に利用されて遠く八子、総社迄転んだと云われて居る。その為、石仏体はかなり摩滅している。石仏の由来についてはさだかではない。平成14年10月吉日 小原町内会・小原東老人クラブすみれ会(2016年2月5日撮影)

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天台宗 長寿山 石山寺のつつじ

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 森忠政が津山城の築城に際し、石垣に使用する石材の切り出しをこの地にて行いましたが、事故などが少なくありませんでした。そのため、家臣に命じて摩利支天を勧進し、お祭りしました。それ以来、庶民の祈願所として崇敬され、石山摩利支天として今日に至っています。
  この間、元真嶋郡(現・落合町)にあった極教寺を津山市山方の古観音寺に再興し極教寺とした寺と、明治43年に旭町の南光寺と石山摩利支天堂を合併し、大 谷の現在地に極教寺を移転しました。しかし近くに極楽寺という寺があり混同されることもあったため、昭和12年に寺名を今日の「石山寺」と改称しました。(2009年の取材はこちら)(2009年の紅葉2010年の桜)2015年4月12日取材

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新屋敷 薮の鼻のお大師様(小田中)

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新屋敷 薮の鼻のお大師様
 新屋敷あたりは昔竹薮が多く、その鼻先(前)薮の鼻となったようだ。その薮の鼻にあるお大師堂は寺町の愛染寺の奥の院であり、1605年金剛寺(岡山市)より畠山快雲が美作の地に来て薮の鼻に庵を建てた。その後に快雲により愛染寺が建立された。又、大師堂境内入ってすぐ右側には上浜恵海尼についての碑がある。現在のお大師堂は3回目の建て替えで新しい。毎月20日に愛染寺の住職、信徒による法会が行われる以前はお遍路さんがよく参ってこられていた。現在でも参ってこられますとのこと。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)

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権ノ庄のお大師様(小田中神田)

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 道祖神の場所から西へ40メートル程進んだところに権ノ庄のお大師様があります。建立された年度は不明ですが、元々紫竹川の氾濫の多い場所を鎮める目的で、紫竹川から少し小高い部分に建てられたいたことが、付近の地名に安岡屋敷そうき畑の地名が残る事から分かります。現在は老朽化の為に平成16年12月に町内会と個人寄付により建て替え落慶法要を済ませました。その後、年二回の老人会の行事として長雲寺の住職の導師作法により法要を営んでおります。(文:つやま城西まるごとまち自慢より抜粋) 2015年4月8日取材

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