津山城(鶴山公園)のつつじと藤の花
2012年5月6日の津山城(鶴山公園)のつつじです。今年は花のつきがいま少しといったところです。でも色とりどりのつつじが綺麗でした。藤の花はさっぱり咲いていませんでした。少しがっかり!この日はお天気も良くてゆっくりベンチで友人と語り合いました。緑が一杯の津山城(鶴山公園)本丸から見る津山市内はまたいいものです。みなさんもいかがですか?(過去の取材)
2012年5月6日の津山城(鶴山公園)のつつじです。今年は花のつきがいま少しといったところです。でも色とりどりのつつじが綺麗でした。藤の花はさっぱり咲いていませんでした。少しがっかり!この日はお天気も良くてゆっくりベンチで友人と語り合いました。緑が一杯の津山城(鶴山公園)本丸から見る津山市内はまたいいものです。みなさんもいかがですか?(過去の取材)
田熊の算仙 中村周介・中村嘉芽市(墓碑) 2012年1月7日取材
中村周介は宇田川榕庵が津山藩医頃、医学と算聖の関 髙和髙弟青木正蔵より和算を修め田熊に帰り医業を継ぎ、また多数の和算の門人を持った。
中でも甥嘉芽市は幼少より算用に通じ人々に「天童」といわれ、周介の教えに熱中、寝食を忘れて勉学、15、6歳で田熊流とさえいわれる和算の奥義を窮めることができた。(周介72才)
文化4年、亀田代官が周介翁を訪ね「堀坂村の井堰が大雨毎に流れ、水の取り入れ口が洪水の進入路となり百姓達は、泣いて訴えます。よい設計はないでしょうか?」と頼まれました。
周介は堀坂の墜道堀盤工事のことを嘉芽市に説明し、16才の天童少年に全部を頼り切った。周介と嘉芽市の設計施行の暗渠堀盤は独創適確な妙案であった。簡素な測量器、曲尺や夜は提灯利用、駆使し和算のうりょくの全力を絞り切って延長百米の大墜道を鎚とタガワで両側から掘って約1年で貫通させた。一当時は日本初の工法といわれたー
周介亡き後嘉芽市は、天下に師を求め、江戸に上り幕府天文方御書物奉公、高橋作左衛門に師事し天文能史の奉行高橋作左衛門は、シーボルトの持つ「世界周航記」「ナポレオン戦記」ほしさに、国外出禁の伊能忠敬の蝦夷測量図と交換した。このことが間宮林蔵よりもれ作左衛門景保先生関係者は、極刑に及び門人嘉芽市も幕府の隠密をさけ、死地を脱す。年25歳帰省後は、「田熊算仙」といわれて二百余名の門人を持ち、また里正となり帯刀を許された。明治11年10月10日没す73歳。(文貴)下山陸治
▲写真提供:広野小学校校長先生
広野小校門を入っての石碑周辺は、戦前における広野小教育の歴史が、象徴的に凝縮されている感がある。創立期の松本譲先生の碑、尋常小学校時代の井上周平先生の碑、御大典記念(昭和天皇御即位記念)と刻まれた石柱、修身を代表する人物二宮金次郎の像、そして、社こそないが原型をとどめている奉安殿跡などがうかがえるからである。
広野小の二宮金次郎像は、戦前の修身教育がさかんであった当時に建立された。台座裏面に、昭和9年7月10日橋北関平作とある。「勤倹」(きんけん)と書かれた立派な台座に比べ、塗りがはげてコンクリ部分が剥(む)き出しになっている、不自然に小さな像は、戦時中供出した銅像の代替品ではないかと想像されるが定かではない。
2011年秋11月25日(くもり)津山城(鶴山公園)の紅葉が始まりましたよ!
まだまだ青い葉っぱがありますので、当分楽しめそうです。綺麗でした!
▲八頭(やかみ)神社の夏祭りが2011年7月3日(日)にありました。この夏祭りは津山市の中で一番早い夏祭りだそうです。ちなみに秋祭りも一番早いそうですよ。ここを皮切りに津山の夏祭りが始まります。
八頭神社は新職人町・桶屋町・新魚町・吹屋町の四町内でお祀りしているそうです。お祭りは毎年焼き鳥をしたり賑やかに執り行われているようです。近年お御輿もあるのだそうですが、修復も中々前に進まないそうです。
福力荒神社(津山市福力130番地)2011年6月25日取材 ★2008年の福力荒神社大祭取材記事
祭神 素盞鳴尊
祭礼
・天和2年 祭日9月9日 社人 横林常陸
現在 旧正月大祭(1日・2日・3日) 春季大祭 4月20日
夏季納涼祭 7月 秋季大祭 10月 新嘗祭・冬至祭 12月
・代表的な祭礼
・旧正月の3日間は午前10時から神事が行われ、巫女による浦安の舞、豊栄の舞も奉納されます。3ケ日には安産・蝮除け・学業成就など願う10数万人もの参拝者で賑わい、参道には200軒もの露店が立ち並びます。
・秋季大祭は、神事に続き傘鉾の行列が組まれ太鼓などを打ち鳴らしだんじり・神輿も御旅所への御巡幸があり盛大に執り行われます。
主要建造物 本殿 幣殿 拝殿 社務所 鳥居 狛犬 碑
宝物 山口彦左衛門の奉献太刀 環頭太刀(創建600年記念)
御利益 蝮除け 子授け 安産 家内安全 学業成就 交通安全 商売繁盛 良縁等
▲津山城(鶴山公園)備中櫓すぐ下の紫陽花です。2011.6.18
▲医王山城跡(2011.5.8)
標高340mの山頂に築かれた山城で、祝山城、岩尾山城とも表記されます。北東を大手、南を搦手とし南北に細長い曲輪を連ねています。本丸は北端にあり、東西12m、南北20mの平坦部の西側と北側に石垣が築かれています。北の峰続きは堀切で遮断されています。二の丸は、本丸の南方に細長く続く平坦部で東側の一部に土塁が確認されます。さらに、その南方に三の丸が位置します。
初めてこの地に築城したのは、南北朝期以前の上道是次であるとされています。その後、南北朝抗争の際、毛利方の湯原春綱が籠もり宇喜多勢と攻防を繰り広げますが最終的に美作は宇喜多領となりました。(文:『津山市の文化財』より)
▲中須賀船着場石灯籠(2011.4.10)
中須賀は、吉井川の船便を利用し、下流にある備前国との交易をする物資の集積地として、また宿場町として栄えた地で、出雲街道の要衝のひとつであった。
ここにある三基の灯籠は、航路の安全を祈る為に建てられたもので、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(明治元年11月吉日)の石灯籠が、また、吉井川沿いには金比羅宮(嘉永7年10月吉日)と刻まれた石灯籠が建てられ、常夜灯として昭和10年代頃まで各家順番で点火していたということである。
その後、これらの石灯籠は、河川改修によりこの場所に集められ、現在に至っている。久米町教育委員会(2011年4月10日、中須賀船着場の看板より)