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取材記事内を検索ワード「赤穂」で検索した結果,31件の記事が見つかりました。

神崎与五郎と勝間田宿、下山本陣

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 忠臣蔵といえば、赤穂浪士の復讐の物語で、全国津々浦々まで知れ渡っている。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが、元禄15年12月14日であったため、現在に至っても年の瀬が近つくと、必ずといっていいほどメディアによって放映さている。
 私が太平洋戦争のさなかに勝間田国民学校に在学していた頃、毎年12月14日には、先生に引率されて、黒土地区にある赤穂浪士の1人神崎与五郎の両親の墓参りをしていた。その頃から神崎与五郎が私たちの郷里で、家族と共に何年か過ごした後、播州赤穂藩に仕官したのどということが分かり、子ども心にも誇らしく思っていたものである。
 神崎与五郎則休は、美作津山藩主森家に仕えていた神崎又市光則を父として、寛文6年(1666)津山城下で生まれた。生母は元禄3年(1690)8月に病没し、津山市愛染寺に葬られている。

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大石神社(赤穂市)

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 由緒 大石神社は明治元年、明治天皇の東京行幸に際し、泉岳寺の義士墓前に宣旨並びに金幣を賜ったのを契機に神社奉斎の議が起こり明治三十三年神社創立が公許され、大正元年十一月三日義士を崇敬追慕する方々の奉賛により御鎮座となった。
 ご祭神四十七義士が一年十ヶ月の永い間艱難辛苦の末見事主君の仇を討った事により大願成就、願望成就の神として全国よりお参りを頂いている。境内地は大石内蔵助、同じく家老の藤井又左衛門そして義士片岡源五右衛門、大石瀬左衛門の邸跡一帯である。
 尚、ご社殿を始とする境内各施設は平成十四年の義士討入り満三百年を記念した境内整備事業により一新された。
 その後、浅野家三代の城主長直・長友・長矩の三侯、浅野家断絶後の城主森家の遠祖、本能寺の変で亡くなった森蘭丸等七代の武将を合祀している。

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義士木像法安殿・義士宝物殿別館(大石神社)

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 大石神社の境内にある義士木像法安殿なのですが、ここには神崎与五郎と茅野和助の木造があるとお聞きし、神崎与五郎や茅野和助がどのような姿だったのかを知りたいと思い訪ねてきました。
 説明板によると、「大石神社境内には四十七士の討入り関係遺品、浅野家・大石家に伝わる宝物を展示している義士宝物殿・同別館、義士自刀二百五十年を記念 し当代一流の彫刻家による浅野長矩像を始め四十七義士の木像を納めた義士木像法安殿、大石内蔵助邸長屋門・庭園の四ヶ所が資料館として拝観できる。」だそうです。

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神崎与五郎・茅野和助直筆の書状が明顕寺にあった。

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真宗 大谷派の寺院、超日山 明顕寺(2015年3月15日撮影)
「忠臣蔵」で知られる赤穂義士の1人、神崎与五郎(1666~17033)が妻に宛てた直筆の手紙や、借用書など7点の史料が明顕寺(相生市陸本町)で発見された。今までは「赤穂義士の神崎与五郎関係の書状」と聞かされていたが、一般に公開されたことはなかったそうです。神崎は城明け渡し後、元禄15年春に江戸へ下向するまでに那波に移住。同寺は同年に那波の得乗寺から分寺したとされるため。
 与五郎は江戸で商人を装い、吉良邸の奉公人らから内部の様子を聞き取るなどして討ち入りに貢献したとされる。(情報提供:真宗 大谷派の寺院、明顕寺)

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神崎屋敷跡(神崎与五郎則安の両親の墓)

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 神崎家は備前和気郡の出身。浦上家の同族と伝承される。祖父三郎兵衛茂範が森藩の値段奉行となり津山南新座に移る。
 神崎与五郎則安 赤穂浪士四十七士の一人(竹平と号す)
 父 又市光則(後半右衛門と改名)値段奉行十三石三人扶持
   元禄3年(1690)ごろ浪人し黒土に移住、寺子屋を開く
 母 先妻死後、勝間田下山六郎兵衛の娘
   寛文6年(1666)津山で生まれ津山藩に仕え父と共に藩を辞し黒土に移る。年代は不詳であるが五   両三人扶持五石(役料)
 父墓碑 本然院理空猶水居士
     享保2年(1717)8月2日 光則・光隆建之 
 母墓碑 悟心妙徹信尼
     享保15年(1730)9月8日 妻76才 光隆建之 
「光隆」については諸説あるが与五郎の弟と推定される。
昭和61年3月 勝央町文化財保護委員会・勝央ライオンズクラブ(文:案内板より)(2016年2月3日撮影)

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瑠璃山 本光禅寺

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 長徳(995)のころより薬師如来を安置して、神徳寺と称す。
寛文(1661)のはじめ津山藩二代目森 長継黄檗の木庵禅師の高弟鉄堂に帰依し本光寺と改名
  東一宮中村七十五石六升六合、西一宮湯谷村七十四石九斗二升四合、計百五十石を禄高として再興、森家菩提寺となる。
元禄十年、森家改易と共に一時寺領退転となるも、森家の族、播州乃井野の城主、森對馬守長俊、同備中新見の城主、関備前守長治、同赤穂加里屋の城主、森和泉守長直等の諸侯より茶湯料として各高十石宛寄附あり。

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茅野家屋敷跡(かんべえ屋敷跡)(津山市河辺)

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⑧茅野家屋敷跡(かんべえ屋敷跡)
 赤穂浪士として活躍した、茅野和助常成の父・兄・子孫の屋敷跡。
 茅野氏は、元津山城主森家に仕えた人で、浪人として此の地に移り住みました。
和助常成は、播州赤穂城主浅野家に仕え復讐の義挙に加わった。文武両道に通じ、風流の道にも親しんだ人格者であったと言われています。
 今は石碑の場所が僅かに残っているだけですが、以前はとても大きな屋敷だったそうです。

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法然上人 生誕の地 誕生寺(久米南町)

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誕生寺由来 (2012年11月18日取材)

 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。
 爾来九百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている法然上人(圓光大師)二十五霊場の第一番。
 境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。(資料提供:美作之国 誕生寺)

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現代の日本にいて欲しい。森長直!

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約300年前、東京・中野に広大な犬小屋があった。
莫大な経済的負担とともに、その造営にあたらされた津山藩・森家の人々が、逆境を乗りこえ、崩壊から再興へと生き抜いた姿を、新たな視点から描く。
十八万六千五百石という外様の大藩であったために、幕府の大藩潰しの標的とされた美作・津山藩森家と、江戸城内の「松の廊下の刃傷沙汰」で取り潰された赤穂藩浅野家。時の権力者・柳沢吉保の策謀に翻弄される両家の姿を、お家再興のために尽力する森直長を軸に描いた歴史コミック。
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これぞ本物の武士!
もっともっと、語り継ぎ、広く知られるべき人物です!
「森一族」をご案内いたします。

 12月になれば忠臣蔵・吉良邸討ち入りの日がやってきます。
「忠義、武士の誉れ」と伝えられてきた「忠臣蔵」ですが、津山藩・森家の物語こそ今、広く伝えていくべきではと思います。
 領民を愛し、その生活を一番に考えた森長直の生涯は、現代の日本の政治家全員の教科書になると思います。

 一昨年、出版した作品ですが、全国から「感動したので遠くにいる息子に送りたい」または「夏休みに生徒に読ませたい」という声をたくさん頂き、重版いたしました。一人でも多くの方に手に取って頂けますよう。

㈱小池書院編集部長 匂坂美保
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清應山 高福寺の本堂格天井画は、狩野如林乗信 作

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天井画をもう一度拝見したいと、清應山 高福寺の本堂をお訊ねしてきました。
 津山市林田にある清應山 高福寺の本堂建設は、相当な経費をかけての大工事であった。大工棟梁は、播州赤穂南野中村から善左衛門清貞が呼び寄せられ、総ケヤキで高度な技術を駆使しており、当時としてはかなり優れた本堂に仕上げたのである。更に、本堂格天井画には極彩色で描かれた、天女や植物の画132枚がはめ込まれている。これは、本堂建設に先立って、津山藩絵師「狩野如林乗信」に依頼して描いたもので、工事が開始された安永3年の6月28日には既に完成している。(大師殿・客殿・庫裏落慶記念誌より抜粋)2012年5月20日取材

前回の取材はこちらをご覧ください。

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