神崎与五郎・茅野和助直筆の書状が明顕寺にあった。

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真宗 大谷派の寺院、超日山 明顕寺(2015年3月15日撮影)
「忠臣蔵」で知られる赤穂義士の1人、神崎与五郎(1666~17033)が妻に宛てた直筆の手紙や、借用書など7点の史料が明顕寺(相生市陸本町)で発見された。今までは「赤穂義士の神崎与五郎関係の書状」と聞かされていたが、一般に公開されたことはなかったそうです。神崎は城明け渡し後、元禄15年春に江戸へ下向するまでに那波に移住。同寺は同年に那波の得乗寺から分寺したとされるため。
 与五郎は江戸で商人を装い、吉良邸の奉公人らから内部の様子を聞き取るなどして討ち入りに貢献したとされる。(情報提供:真宗 大谷派の寺院、明顕寺)

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明顕寺の山門

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明顕寺の境内      梵鐘

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明顕寺さんに突然お尋ねしたのにもかかわらず丁寧に応対くださいましたご住職に感激でした。其の上、後日、資料を丁寧にコピーして送ってくださったこと重ねてありがたく、私たちも見習わなければならないことだと改めて思いました。

神崎与五郎関係資料(資料解説)

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神崎与五郎自筆の手紙(3)     神崎与五郎自筆の手紙(2)   神崎与五郎自筆の手紙(1) 

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1 神崎家宗門改目録
 神崎与五郎家における宗門改めの目録。元禄12年(1699)当時、神崎家には与五郎のほか、弟の藤九郎、家来(奉公人のこと)として那波浦の九郎左衛門娘やつがいたことがわかるが、なぜか与五郎の妻かつが記載されていない。与五郎と藤九郎の旦那寺は加里屋の花岳寺、やつは那波浦の得乗寺で、寺手形(寺請証文・宗旨手形とも。寺が檀家であることを証明した文書)は与五郎の手元に取り置いていることが書き添えられている。

2 神崎与五郎借銀証文
 元禄12年12月、神崎与五郎が、茅野和助を加判人(連帯保証人)として、中村源左衛門から銀札百目を借用した証文。翌元禄13年末までの期限で、三朱まで五匁の利息で借用している。

3 神崎与五郎の書状 
 妻かつから送られてきた手紙への返書と思われる。「かもじ」(美作国勝田郡黒土村=現岡山県勝央町にいる母のことであろう)のところへ見舞いに遣わしていたのであろう、母の気分がよいという知らせを喜んでいる。また、かつが2.3日留まりたいという願いに対して、18日には赤穂に帰ってきてほしいと答えている。追而書では、余裕があれば親類筋であろうか「まござえもん」のところへ寄ってもよいと伝えている。

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茅野和助自筆の手紙(4) 

4 茅野和助書状
 茅野和助が神崎与五郎に宛てて送った書状。茅野の父立安が亡くなったことに対して、神崎から悔やみの書状をもらった礼を述べている。茅野家と神崎家はともに元美作津山藩森家中ということで日ごろから懇意にしていたのであろう。神崎の弟藤九郎がたびたび茅野を訪ねていることがうかがえるし、追而書では茅野が老眼のため手紙も書いていないとして、妻のかねの実家中祐玄によろしく伝えてほしいと頼んでいる。

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萱野三平自筆の手紙(5)
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5 萱野三平書状
 萱野三平が神崎与五郎に宛てて送った書状。神崎は、何らかの理由で、おそらく津山か父の住む黒土村と思われる「懐古之地」に赴いていた時なのであろう。萱野は留守の神崎邸の門前までは折節訪ねているといい、先頃手紙を送ったがいまだに返事がないので心許ないと言っている。初桜の噂もちらほら聞こえてきたので、遊山の句でもと思ったが差し控え、どこへも出かけなかった。しかしながら、小山(大石内蔵助伯父小山源五左衛門の息子のことか)と八幡(小山源五左衛門末子で大石内蔵助養子となり、石清水八幡宮大西坊に入った覚運のことか)からは年礼として詩を2、3句送ってきたのでお目にかけるといっている。また、子葉(大高源五の俳号)からも書状とともに一首届いたと伝えている。さらに、「懐古之地」へ行かれたとのことで何か句作もないだろうかと尋ねている。
 俳諧を通じて萱野(号涓泉)・神崎(号竹平)・大高の交流ぶりがうかがえる書状である。

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神崎半右衛門自筆の手紙(6)
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6 神崎半右衛門書状
 神崎半右衛門が神崎与五郎に送った書状。半右衛門(又市)は、与五郎の父で、津山藩森家中であったが、元禄初年には離藩し、浪人となって美作国黒土村にあった。
 文中に、浅野内匠頭長矩が赤穂に帰城していたこと、「潰」(津山藩森家改昜[元禄10年]のことか)以来3年が経過したこと、森和泉守長直が備中西江原藩主になっていることが書かれており、これから類推して、本条は元禄12年(1699)に書かれたものと思われる。
 本状では、与五郎弟藤九郎のことについて、与五郎と力を合わせれば藤九郎の奉公の口も見つかるのではないかと願っていたが、まだそのような知らせもとどかないので、あと2、3年は待ってもよいとし、勤め口があった際は家の普請も必要だろうと少しづつ貯えをしていると伝えている。また、与五郎祖母の出里である角南家の現在の当主は善兵衛で、この伝手で西江原藩への仕官についても頼んでいる旨を伝えている。
 なお、与五郎の弟の藤九郎については、元禄16年正月に与五郎が書いた親類書では「浪人ニ而 父一所罷在候」と記されており、美作国黒土村に父半右衛門とともに暮らしており、いずれへの仕官もかなっていない。

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本清右衛門・河本新蔵の2名が連名で神崎与五郎に送った書状(7)
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7 岡本清右衛門・河本新蔵連署状
 元津山藩家中の時代の同僚であろうか、岡本清右衛門・河本新蔵の2名が連名で神崎与五郎に送った書状。無沙汰を詫び、内容は不明だが「是」が2つあるので、一折を慰みに進覧するといっている。神崎が喜ぶような、俳譜に関する折本を進呈したのであろうか。また、追而書には、やはり元同僚茅野和助からの書状が届いた旨を伝えてほしいと頼んでいる。

(解説文:赤穂市教育委員会 小野様)

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(情報提供:真宗 大谷派の寺院、明顕寺 兵庫県相生市陸本町6-30)
明顕寺さんにはとても親切にしていただき、この場を借りて厚く御礼申し上げます。