神崎与五郎と勝間田宿、下山本陣

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 忠臣蔵といえば、赤穂浪士の復讐の物語で、全国津々浦々まで知れ渡っている。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが、元禄15年12月14日であったため、現在に至っても年の瀬が近つくと、必ずといっていいほどメディアによって放映さている。
 私が太平洋戦争のさなかに勝間田国民学校に在学していた頃、毎年12月14日には、先生に引率されて、黒土地区にある赤穂浪士の1人神崎与五郎の両親の墓参りをしていた。その頃から神崎与五郎が私たちの郷里で、家族と共に何年か過ごした後、播州赤穂藩に仕官したのどということが分かり、子ども心にも誇らしく思っていたものである。
 神崎与五郎則休は、美作津山藩主森家に仕えていた神崎又市光則を父として、寛文6年(1666)津山城下で生まれた。生母は元禄3年(1690)8月に病没し、津山市愛染寺に葬られている。

kanzakiyogorouhaha.jpg←愛染寺にある神崎与五郎の生母の墓

 父は森家値段奉行を勤め、十三石三人扶持を給せられていた。美作津山藩も初代忠政、二代長継の時代は城の構築、大坂の役の出陣、各地の寺社営造などで、多額の出費が重なり、藩財政が窮乏していた。その建て直しができないままで、三代長武、四代長成に至り、重臣の専横も加わって、派閥争いは深刻となった。この派閥争いに嫌気がさして、離藩し、家族と共に美作勝田郡黒土村(現、勝央町黒土)に隠棲したのが、父の又市である。
 又市の後妻(与五郎の義母)は美作勝田郡勝間田村(現、勝央町勝間田)の本陣下山家の娘である。美作津山藩の初代忠政は入国以来、治山治水、新田開発に積極的で奨励政策や助成を行った。勝間田平野も藩の助成で大規模な開田工事が行われ、その主役を務めた下山和十郎はその功績により、本陣にとりたてられた。下山家は黒土村に多くの田畑を所有していたので、父の又吉は黒土村に移住したのである。そして、農耕のかたわら、村の弟子を集めて、猶水と号して寺子屋を開き、読み書きを教え、与五郎の薫陶にも努めていた。父又吉には妹がいた。この妹が美作英田郡楢原村(現、美作市楢原)から、美作津山藩に仕官した箕作義林に嫁し、平太兵衛(箕作家医家初代)を産んでいる。

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↑ 津山市西新町にある箕作邸と家系図
 与五郎は、黒土村に転居後、まもなく弟藤九郎に家督を譲って郷里を後にし、赤穂に赴き、播州赤穂浅野家に仕え、横目五両三人扶持を受けることとなった。この時父又市は、主君浅野内匠頭長矩の幼名又市郎をはばかって、半右衛門と改名している。これが赤穂浪士のさだめの序章である。
 元禄7年(1694)跡目がなく、除封となった備中松山藩(現、高梁市)の城受けの際、主君浅野内匠頭の先供歩行を勤めたのが、与五郎の赤穂藩での最初の仕事であった。その後元禄10年(1697)美作津山藩も次期藩主が発病し、やむなくお取り潰しとなった。更に、元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主浅野内匠頭が殿中において、吉良上野介義央に刃傷に及ぶという未曾有の大事件が突発した。内匠頭は即座に切腹、浅野家は断絶となり、赤穂藩を震撼させた。与五郎にとっては、備中松山藩城受け以来、10年足らずの間に美作津山藩除封、播州赤穂藩断絶、そして元禄15年(1702)の吉良仇討ちという波乱万丈の運命が待っていたのである。

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↑ 大石神社にある神崎与五郎則安の石像
 与五郎は身分は低かったが、事件後の推移にともなう決議誓約等に迷うことなく、初めから大内蔵助良雄の同盟に加わっていた。やがて、江戸の急進派の動きが激しくなった。その鎮撫と吉良家の偵察の必要から、与五郎に白羽の矢がたち、元禄15年3月、単身江戸に向かった。途中、箱根の宿場で、馬喰の丑五郎から馬のことで因縁をつけられ、堪忍袋の緒を締めて、詫び状一礼を渡した話も有名である。吉田奈良丸(浪曲師)の得意の語り物に「義士伝神崎与五郎東下り」として、人々に喧伝された。昭和27年10月、吉田奈良丸が勝間田に来演した際、黒土地区にある神崎家の墓前に供花したことがある(勝田郡誌)。
 4月2日江戸到着。商人になりすまし、吉良家の様子を探った。9月19日に「海山は中にありとも神垣の隔てむ影や秋の夜の月」と詠んでいる。その日はかつて父子ともに仕えていた津山藩の徳守神社の祭礼に当たっていた日で、あずま路の空に煌々と照り渡る秋の夜の月を眺めて、懐郷の感懐を詠んだものである。津山の徳守神社に歌の碑が建立されている。

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↑ 大石神社にある神崎与五郎則安の木彫りの像     ↑ 津山市宮脇町徳守神社にある歌碑
 与五郎には子どもがなく、赤穂藩士の妻の父も事件前に病死し、赤穂では妻とその母が那波(現、兵庫県相生市)の三木孫左衛門の世話になっていた。父母と弟は黒土の実家在住。勝間田には伯父などの親類が在住していた。
 討ち入りの前日まで、雪が激しく降った。「あづさ弓春近ければ小手の上雪をも花の吹雪とや見ん」与五郎は短冊にこの歌をしたため、襟にはさんで、討ち入ったのである。首尾よく本懐を遂げたあと、三河岡崎藩(愛知県岡崎市)の藩主水野監物忠之のもとに預けられた。元禄11年1月22日に、自署親類書(別途掲載)を徴せられている。そして2月4日に「人はただ言はぬことをや恨むらん浮世の名さへ口なしにして」の一首を残し切腹「刃利教剣信士」という諡号で、江戸の泉岳寺に葬られた。時に38歳であった。
 父の半右衛門は与五郎が赤穂浪士として名をなした後、享保2年(1717)に病没、次の辞世を残している。「身に添ひしよつのもの皆払ひすて心はもとのすみ家へぞゆく」また、母は享保15年(1730)に没している。勝間田平野を見下ろす、国道179号線沿いの黒土地区の高台には、今も与五郎の父と母の墓が樹木に隠れるように、ひっそりと建っている。木村泰ニ(きむらたいじ/勝央町岡)
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↑ 勝間田にある与五郎の両親の墓
親類書
祖父・神崎三郎兵衛(森美作守様に相勤罷在、先年病死仕候)
祖母・角南弥三右衛門娘(先年病死仕候、弥三右衛門儀森美作守様に相勤罷在、先年病死仕候)
外祖父・下山六郎兵衛(森美作守様相務罷在、先年病死仕候)
外祖母・(下山吉左兵衛方に罷在候、父之名覚不申候)
父・神崎半右衛門(森美作守様相勤只今浪人に而、作州勝田郡黒土村罷在候)
母・下山六郎兵衛娘(父一所罷在候)
弟・神崎藤九郎(浪人に而、父一所罷在候)
妻・河野九郎左衛門娘(播磨赤穂指置候、九郎左衛門儀先年病死仕候)
伯父・下山吉左兵衛(森美作守様に相務只今浪人に而、作州勝田郡勝間田村に罷在候)
伯父・下山源太兵衛(森美作守様に相務只今浪人に而、作州勝田郡之内に罷在候)
従弟・箕作平太兵衛(森美作守様に相勤只今浪人に而、当御地へ罷越候得共住所不存候)
以上
元禄16年 癸未正月 神崎与五郎則休(花押)
<参考文献>
「日本及び日本人」平成10年新春号

(文:木村泰ニ(きむらたいじ/勝央町岡) 出雲街道宿場考より)
(2015年3月15日、2016年2月3日・5日撮影、尚、解らないこと等ご親切に対応下さった勝央町教育委員会の若き職員さんに御礼申し上げます。)